一句の風景

考を恋ひ妣を恋ふかにちちろ鳴く

昨日、福岡城のお堀端を歩いていたら、柳の梢で法師蝉が鳴き下の叢では昼の虫がチリリリーと鳴いていた。もうそんな季節になったのですね。
さて、少し感傷的な句で読者によっては何の感動もない平凡な句と思われるかもしれないが、男とはとかくこのような句を詠みたがるものです。
お盆も過ぎて秋の色が濃くなり、庭先に今年も蟋蟀がきれいな声で鳴いていた。
蟋蟀は生れた時から両親を知らない。それだけにその鳴き声はあたかもその両親を恋いるかのように聞こた。私たち人間が父母を恋うかのように。
2014年(平成26年)9月「季題:蟋蟀(秋)」

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私の好きな一句

盆布施のきばりてありしちとばかり  静雲

私の師祖にあたる河野静雲は、私が俳句の道に親しみ始めた時にはもうこの世の人ではなかった。
それだけにその人生や俳句に対する姿勢については人づてにわずかに聞くだけだったが、このほど偶然読んだ岸本尚毅の著書「生き方としての俳句」に、静雲の俳句と共にその人柄について詳しく紹介されていた。
それによると、僧侶である静雲の本質は、虚子をして「底に涙を蔵した可笑し味」と言わしめた人情味にあると言う。
例えば、寺に来るお婆さんたちを「婆々」と評して蔑んでいるように見えるが、実際はお婆さんたちを温かい目で見つめているのである。
静雲の一見特異な句風は、客観写生と言いながらも実は人間臭い虚子の一面を継承したものであると結んでいる。
秋櫻子など中央で活躍した俳人に比べて地味だが、それは地方にあって虚子と直に接する機会が少なかったことに由来していると私は思う。
掲句は典型的な静雲の「底に涙を蔵した可笑し味」の句である。

一句の風景

炎昼や自販機だけの峠茶屋

真夏の温泉を訪ねた時の句である。
少し遠出して鄙びた山奥の温泉に入りたいと、佐賀県の山川温泉まで車を飛ばした。ここは低温泉で知られている。
ここには低料金の公共温泉があり、地元の人で賑わっている。いや、賑わっているというのは誤りで、誰もが静かにしかも長々と湯につかっている。
私も川沿いを飛ぶ燕の数を数えながら、約1時間湯に浸かっていた。それが苦にならないとう言うかむしろそうせざるを得ないほどの低温である。
それでも汗をかく。汗をかけば喉が渇く。
帰り道の峠にたしか茶屋があったはずだと遠回りしたところ、茶屋はなくぽつんと自動販売機だけが立っていた。
2014年(平成26年)7月「季題:炎昼(夏)」

一句の風景

山笠法被羽織る老舗の提灯屋

博多祇園山笠の句である。
山笠は博多の鎮守櫛田神社の祭礼行事で、勇壮な舁き山で有名な祭である。クライマックスまでの15日間、街は祭一色に染まり、法被姿の男衆がさも自慢げに闊歩している。
その法被さえ着ていればどこへでも出入り自由というのだから、おおらかと言うか街の熱気ぶりが窺える。
祭は若い者だけのものではない。
櫛田神社の近くに老舗のちょうちん屋があるが、その老主人もきりりと法被を着て店に立っていた。その姿は若いものには負けぬ、凛々しい絵になる姿であった。
2014年(平成26年)7月「季題:山笠(夏)」

一句の風景

笛の音の神を誘ふ夏神楽

近くの氏神である田島神社の夏神楽を見た時の句である。
神楽と言えば舞と笛である。
夏の暑い盛りに、神楽の舞手は正式な装束に身を固め、全身褪せだらけで舞っていた。
本人は真剣でその汗も気づかないほど集中しているかもしれない。
一方笛はさも涼しそうな調べを奏でている。
その笛はあたかも依り代を立てて神を迎える降神の儀のようで、その笛の音に誘われて神が天上から降りてくるような気がして賜った句である。
2014年(平成26年)7月「季題:夏神楽(夏)」

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