一句の風景

記念碑に残る父の名村祭

私の故郷三瀦郡犬塚村(今では久留米市に編入)では、今でも村の玉垂宮という鎮守で季節ごとに祭があるが、その中でも「よど」と言っていた夏祭りが一番楽しかった。
よどは村の中学生が中心となって祭を盛り上げ、この祭に寄り会うことが一種の大人への登竜門みたいになっていた。
祭では米粉を蒸して餡をくるんだ素朴な「よど饅頭」が家々で作られ、お宮ではお母さん方が大豆と昆布と炒り子を大なべで焚いて参拝者にふるまっていた。
その宮には何かの記念の丸い石碑が立っており、その中に「清八」という父の名前を見つけた。我が家が古くからこの地に根付いていた証拠であろう。
その父の名を偲んで賜った句である。
2014年(平成26年)8月「季題:村祭(秋)」

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実体感の無い俳句

今日は実体感の無い俳句について考えてみた。
私自身の話をすれば、身近に俳句の季題の花樹を育て面倒見る訳ではなく、ただ公園や植物園で何とかそれらを探し当てて、じっくり観察して詠むのが慣例になっている。
そこには表面上の写生があるだけで、真剣にその花に心を寄せているかどうかは疑問である。
咲いている花、散り敷いた花びらを詠むのは見ないで詠むよりはるかに良いのは当然だが、そこにはどうしても心が寄り添っていないような気がする。
水や肥料をやり、その花の芽が出て膨らんでやがて満開を迎えて散っていく。その様を見続けることは出来ないからである。
花を育てると言う実体験の無いままに、頭の中でその花の生涯を想像して詠んだのでは、花にあまりにも失礼であり申し訳ないような気がしてならない。
そこには私自身も含めて単なる言葉の転がし、困った時の風頼み、類想句のオンパレードに陥り易いような気がする。
あまりそのことに重きを置くと俳句を辞めざるを得なくなる。そういった意味では無理を承知でお話しているのだが。

  秋風や心変りのせし女  英世

私の好きな一句

天の川の下に天智天皇と臣虚子と  虚子

昨夜はお盆と言うことで、久しぶりに家族全員が我が家に集まり食事を共にした。愛莉の学校やお友達の話しに爺としてはただただ目を細めるだけであった。
さて、今回は高浜虚子の太宰府での句で自分の名を詠み込んだ珍しい句である。
俳人の坊城俊樹によれば、「虚子は郷里松山での兄の法事に出て九州に船で着いた。そして太宰府を参拝し、都府楼に佇んでいた彼は何を思っていたのだろう。(中略)かつて天智天皇がこの地で唐などからの国土防衛をしたことに想いを馳せる。その時虚子はいたたまれず、自身もこの天皇の一臣下として国を護ろうと思ったのである。」と述べている。
天智天皇は白村江の敗戦の後、大宰府に大規模な防衛網を敷いた。その遺跡の水城に立つと、虚子の思いが切々と伝わってくる。

考えさせられる句

昨日に続いて俳句の解釈の話である。
ずいぶん前に固有名詞の句はよほど有名なもの以外は他方の人には分からないので、なるべく地元の句会に出すべきだとお話しした事があるが、今回また考えさせられる句に出会った。
NHK全国俳句大会入選作品集の中に「天高し肥後と豊後の牛の色」と言う句があった。少しひねりの入った句であることは明らかである。
作者は秋晴れの牧場に散らばる牛を見て、肥後と豊後では牛の色が違うんだよと言いたかったのであろう。
私みたいに九州に住んでいる人間には色の違いはすぐ分かるが、果たして全国の人とくに都会の人に分かるだろうか。
ところで、この作者は肥後と豊後のどちらの牧場に立っていたのだろうか。在所が熊本と書いてあったので、多分阿蘇の牧場で詠んだ句であろうとは思うのだが。
ちなみ、「肥後赤牛豊後黒牛草紅葉」と言う、問題の解決になる全部漢字の句を見つけた。
いずれにしても、この二つの句からは故郷を讃える以外の何の感動も得られなかった。
今夜は久しぶりに家族が揃うことになっている。

  秋天や溶岩原に立つ牛親子  英世

どちらが寄りかかっているか

ずいぶん前の話だが、脊振山の尾根歩きで奇妙なものを見つけた。山の斜面で岩と樹がもたれ合い、どちらが寄りかかっているのかわからない姿である。
自然界のことだから突き詰めてみればわかりそうなものだが、岩が樹に、樹が岩に寄りかかっているようにも見える。
実はこのような現象は俳句にも時々見られる。
私が読んだ本の中に石田波郷の「霜の墓抱き起されしとき見たり」と言う句があった。
長谷川櫂は墓が抱き起されるのを波郷が見たと解釈する人がいたが、これは波郷が抱き起されたのである。しかもその墓は波郷がいずれ入るであろう墓で、抱き起された衝撃で波郷が垣間見たのかもしれないと解説していた。
私も霜の墓と言う上五の後のはっきりとした切れで、波郷は病床にある自分が抱き起され、あるはずもない自分の墓を見たのだと解釈した。
このようにどちらともとれる俳句は、連体形や切れの油断などで往々にして生まれがちなので注意しなければなるまい。

  秋暑し寄らば大樹の影とかや  英世

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