天神に鼬(いたち)

昨日の話だが、硯潮句会が行われた天神の水鏡天満宮で、池のふちを小さな茶色い動物が駆け抜けていった。まぎれもなく「いたち」である。
子供の頃から見慣れている動物だけに見間違えるはずはない。
最近では花畑園芸公園で一度いたちを見かけたが、久しぶりに見る正真正銘の鼬であった。しかも水鏡天満宮は福岡市の街のど真ん中にある。
鼬がいると言うことはどこかにけもの道があるはずであり、えさ場があり、もしかしたら子育て中の巣があるかもしれない。
近くには川が流れており、大きな公園や寺社もある。そのような環境に適応して鼬がここに棲みついたのだろう。
天神のど真ん中に鼬がいるとは、福岡は人間だけではなく動物たちにとっても住みやすい街なのかもしれない。

  鼬棲む都心の宮や梅雨明くる  英世

スポンサーサイト

書くことは難しい

トランプ大統領のツイッターではないが、昨今ネット時代の危うさが云々されている。
自分自身も書くこと自体が怖いというか、難しくなってきたような気がする。
元来もの書きが好きで、このブログにも好き勝手なことを書いているし、「シルバーだより」の記事なども書いているが、その文章はこれでいいのかと自問自答することが多くなった。
なぜならば、無意識のうちに他人に迷惑をかけているのではなかろうかと気になるのである。
世の中、自己中心で他人を傷つけることなど平気な風潮だが、私は決してそのようなことをしないように心がけている。
それならブログなど止めたらとも思うが、いったん書き出したらその魅力に惹かれ止めらくなってしまうのである。
あまり気にしても仕方がないので、他人様にご迷惑をおかけしないように、これからも政治家や歴史上の人物などの著名人を除いて、顔写真や個人名の入った記事だけは書くまいと改めて心に誓っている。
なにしろ「活字にしたら百年目」だから。

  取材とて炎暑の中を駆け巡る 英世

月並俳句

しつこいと思われるかもしれないが、またまた子規の話である。
子規は一茶から子規までの約百年間の句を、卑俗陳腐であるとして月並俳句と呼んだ。月並とは毎月、決まって開かれる句会のことである。
その間、全ての俳人がそうだとは言っていないし、中に子規の思いに通ずる俳人や句があることは認めている。俳句そのものよりも、堕落した宗匠やその宗匠中心の俳句会そのものを糾弾したかったのかも知れない。
しからば、月並俳句とは具体的にどのような句を言うのだろうか。
子規の没後、雑誌「ホトトギス」では、月並俳句の要件として「駄洒落・穿ち・謎・理知的・教訓的・厭味・小悧巧・風流ぶる・小主観・擬人法」の10項目を上げて勧告している。
これからすると、子規はどうも俳句に思想や理屈を持ち込むことを嫌い、美的感覚に重きを置くべきだと考えていたように思われる。
「俺ははこんなことを知っているぞ、人はこうあるべきだ」と言った自己主張や精神論など知識をひけらかすことを嫌い、素直に風雅を愛した句を好んだようである。
そのことがのちの虚子の客観写生に到達したのかもしれない。明日からしばらくはその虚子のことについて再び勉強することにしよう。
と、偉そうなことを言いながら、私の句は子規の言うところの月並に陥ってしまってはいないだろうか。気になるところである。

  雷神や子規の言の葉尖りゆく  英世

山笠扇

今年も山笠の追い山が終った。
今年こそは朝早く又は前夜から待機して見ようと思っていたが、今年も実現せずテレビ桟敷で済ませてしまった。
山笠で思い出すのは「山笠扇」である。
ずいぶん昔のことだが、この時期、行きつけの割烹「ひしむら」では常連の客にだけに「山笠扇」をプレゼントしてくれた。結構値の張るものなので、おいそれと一般客にはプレゼントできなかったのであろう。
その「山笠扇」がもったいないからと、通常は使わず書棚に保管していたところ、いつの間にか10本ほど貯まっていた。
このままにしておくのもどうかと海外旅行の時の友人への土産にしたり、前にお話しした東北仙台の友人へのプレゼントにしたりしているうちにとうとう無くなってしまった。
最後の一本は孫の鈴花にやったことまでは覚えているが、その山笠扇がどうなったかは分からない。
山笠の時期になると「あの山笠扇はどこへ行ったのだろうと」懐かしく思い出す。

  職退いて貰ふことなき山笠扇  英世

子規の思考法

先日来、子規の随筆集を読んだ話をしたが、その中の子規の思考法に興味を持った。
解説の大岡信に言わせると、子規の思考法の一つに尻取り式思考法があると言う。
それは子規が感興に乗った時にしばしば示す特徴的な前進的思考法で、何でもない一言から、「だからこうだ、そしてこうだ、それだからこうだ」と畳みかけて前へ前へと進んでいく。
そこには空想的な思考が存在するが、その空想は単なる空想ではなく、しっかりと具象的、具体的な現実のイメージによって裏付けされていると解説している。
確かに子規の思考は論理的で常に前向きである。
例えば「目が開けられぬから新聞が読めぬ、新聞が読めぬから只考える、只考えるから死が近いことを考える、だから云々」と言った具合である。
私も書くことが大好きでいささか病的になっているが、私の思考は断片的単発的で数ページあるいは数行ですぐに行き詰ってしまう。
これからは子規の尻取り方式を勉強し、だからこうだ、だからこうだと前向きに考えるように努めたいと思っている。

  暑き夜やもの書くことの楽しさも 英世

 | BLOG TOP |  NEXT»»