角打の清算

昨日は懐かしい角打の話をしたが、その支払い方法がユニークであった。
角打は原則立ったままの飲酒で、テーブルに椅子はなくそのテーブルには小さな竹籠が置いてあった。最初はピーナッツの殻でも入れるのかと思っていたが、それがとんでもないユニークな籠であった。
テーブルに着くや否や店員がその籠に千円札を入れろと言う。どうするのかと見ていると、酒やつまみを注文するたびに、その籠から必要なお金だけを取りおつりを入れていくのである。飲んでいくうちにお金が減っていき足らなくなるとまた千円札を入れるという仕組みである。つまり、前払い制である。
確かにお金がなければ店も飲ませないし、飲む方もお金が無くなれば帰るしか方法がないので合理的と言えば合理的である。
西部劇でジョンウェインが一杯飲むごとにコインを投げるシーンを何回も見たが、この角打はそのような厳しいシステムである。
見ようによってはお金がないものには飲ませないぞと言わんばかりだが、私にはこの清算方法が妙に合理的に思えて仕方がなかった。

  金なくば帰るほかなし年の暮  英世

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角打

先日友人に誘われて久しぶりに角打なるものに行った。50年ぶりだろうか。
角打と言うのは、ものの本によると「四角い升の角に口を付けて飲むことから酒屋の店頭で升酒を直接に飲むこと。転じて、店の一角を仕切って立ち飲み用にすること。また、そこで飲むこと」とある。
先日行った角打もまさにその通りで、テーブルに椅子はなく、つまみは懐かしいスルメやピーナッツなどの乾きものが主であった。
実は酒を覚えてすぐのころ、金がないので天神の角打で友人と飲んでいたころを上司に見つかり、翌日「わが社の社員たるものが角打をするとは何事か」とこっぴどく叱られたことがある。
彼にすれば一応名の知れた会社の社員として、酒の飲み方にもそれなりに品位を求めたかったのであろう。
それ以来角打に行ったことはなかったが、久しぶりにその角打に行って何故か無性に懐かしく、そこに酒飲みの原点を見たような気がした。

  角打や足の縺れもクリスマス  英世

枯蓮

今回の俳句の会「鴻臚」の兼題は枯蓮と寄鍋であった。
まず枯蓮であるが、字のごとく枯れた蓮である。歳時記によると「秋の深まりとともに破れ傷んだ蓮の葉(敗荷)は、やがて冬に入ると枯れ尽して折り曲がった葉柄などが水面に残って哀れを極める」としている。
実際に福岡城のお堀の蓮も今はすっかり枯れ尽くし、堀一面に茶色い風景が広がっている。まだ真直ぐに立っているもの、斜めに倒れたもの、折れ曲がって鼻先を水中に突っ込んでいるものなどさまざまである。
冬の荒涼たる風景の中でもこの城堀の枯蓮は印象深いものがあった。
その枯蓮を詠んだ今日の一句をご紹介しよう。

  痩せ骨のこすれ合ふ音枯蓮  英世

焼酎グラス

凩が吹き始めるこの時期になると、私の焼酎も水割りからお湯割りへと変わる。私は濃い目が好きなので焼酎6に対しお湯4のいわゆる「ロクヨン」である。
そのお湯割りに変わると必然的にグラスも変ってくる。お湯割りを水割り用のグラスで飲むこともあるが、すぐ冷めてしまうのが欠点である。
ということで専らお湯割り用の器を使っている。
その器も三種類あり、一つは韓国旅行の際に買った青磁の器、他の二つは退職後作陶を趣味にした友人からいただいたものである。
お湯割りの焼酎に変わりはないはずなのに、なぜか器によって味が少しずつ変わるような気がする。
器を楽しむ意味もあって3個の器をかわるがわる使っているが、やはり手触りや口当たりの良い青磁の器が一番気に入っている。

  焼酎を湯割りに替へて冬支度  英世

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お酒は外で飲む

秋は名月の季節で、煌々と輝く月を愛でながらの一杯は呑み助にはこたえられない。
そのお酒の話だが、信じられないという御方もおられようが、私の部屋にはお酒のボトルは一本も置いていない。普通は書棚の隅に一本ぐらいは置くものだが、正真正銘置いていないのである。
この習慣は東京での単身赴任生活から身につけている。
理由は簡単で、止める相手がいない自分一人の部屋で飲みだせばきりがなく飲むだろう(実際は一回も飲んだことがない)と、飲むなら外でと決めて実行してきただけである。
外で飲むということは自然とお金と時間に制約される。つまりお金なければ飲めないということになる。
この部屋にお酒を置かない習慣は福岡に戻って来てからも続けることにした。
今も部屋にはボトルがなく、掃除、洗濯など自分のことは自分でする習慣と共に良いことだと思っている。

  満ち足りし月を相手に手酌酒  英世

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