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慰安旅行2

湯本温泉に着いて第二の誤算である。値段が値段だけにこんなものかと思うのだが、古いだけが取り得の何の変哲もないホテルである。部屋は和室の四人部屋、テレビは小型の旧型、BS放送も入っていないし、トイレもウォシュレットなしの旧式である。浴衣は派手派手の緑色で、茶色の羽織とのアンマッチは甚だしい。名誉のためにホテル名は伏せておこう。
浴衣に着替え早速温泉に飛び込んだ。湯はありきたりの単純アルカリ泉、効能も万病に効くとのこと。露天風呂なし、サウナ風呂なし、つまり何の特徴もないと言うことである。
気を取り直してさあ宴会だ。酒も回り騒がしくなってきた頃、相も変らずカラオケである。何処の宴会も似たり寄ったりであまり書く気もしないが、ただこと宴会に限っては一時の焼酎ブームからまた日本酒に戻ってきたような気がする。料理もまずまず満足していただけたようだが、幹事役の私はあまり食べる暇がなかった。
小さい部屋に四人詰め込んで、ぐっすり寝ろと言う方が無理である。鼾の大合唱の中なかなか夜は明けなかった。(つづく)

慰安旅行

会員の慰安旅行が門司レトロ地区から湯本温泉、萩方面への一泊二日で催された。
総勢40人で年に一度の旅行だけにこの日を楽しみにしていた人もいる。全員60歳以上であるがこの時ばかりは遠足気分で、集合時間の1時間も前に来る人もいたほどである。生憎の雨模様であったが、欠席者もなく定刻に無事出発した。
バスは一路高速道路を東へ取り門司港レトロ地区へとやって来た。ここで早速誤算である。何と目的の場所で市民マラソン大会があっており、バスは駐車場に近づけないでいる。どうにかJR門司駅の裏側に着け、いざ観光にとなったが雨は一向に止む気配はなく海からの風も烈しくなってきた。それでも旧三井倶楽部にもぐり込み、門司港が見渡せる定期船の発着場から雨の門司港も見学した。だが、広場のフリーマーケットも早々に片付け始めたし、バナナの叩き売りもやっていない。散々な状況に変りはなく、半ばやけ気味に宝くじを買って早々に切り上げた。
それでも旅は続く。昼食は下関の「ふくの関」で取ったが、残念ながらふぐ刺しは付いておらずふぐの皮が付いているだけであった。これも値段次第であろうが、団体旅行であれば自分だけ我が侭を言う訳には行かない。
新唐戸市場の喧騒ぶりには正直驚かされた。食事と買物に最適の処であり、帰りに寄りたかったが週末だけの営業で明日の月曜日は休みとのことであった。
その後長門市内の武家屋敷を観光する予定であったが雨が烈しくなったために素通りして早めに今夜の宿「湯本温泉」に入った。(つづく)

  旅立ちに悪しき兆しや冬の雨   英世

誕生祝

11月26日は私の誕生日である。
その日はお話したようにミニ旅行で家を空けるため、前日の25日に家族全員でお祝いをしてもらった。
我家では子供たちのために誕生祝をすることはあっても、自分たちの誕生祝をしたことはなかったので、突然のことに戸惑いながらも嬉しさを隠せなかった。聞けば長男の新妻の発案らしい。新しい家族が出来るとまた新しい習慣が始まるのだなと感慨深く、涙腺の弱い私はすぐ目頭が熱くなった。
小6の孫娘の澄み切ったハッピーバースデイの唄に始まると、ケーキのろうそくに火が灯された。息子が6本の大きなろうそくに火を灯した後、「お父さん、小さいろうそく何本だったっけ」。馬鹿野郎、親父の歳ぐらい覚えておけと腹の中で言っておいた。
酒好きの私の誕生日らしく料理は日本食、息子がマグロが高くなるからといって大トロを奮発してくれた。新婚なんだから何かと入用だろうに、と思うのが悲しい親の習性である。
隣に住む娘婿は自慢の包丁で烏賊を5匹も捌き、手を真黒にしながらきれいな烏賊刺しを作ってくれたが、これがまた金魚の‥のようにつながっており笑いを誘った。もちろんこの日も豚カツとポテトサラダは私が作った。
常日頃はあまり飲むな、あまり食べるなと小言ばかり言う家内も、この夜だけは何にも言わず酒を注ぎ、ケーキを取ってくれた。こうして至福の夜は更けて行った。

  吾が誕のその朝霜の烈しとか
  淡々と歩む六十路や去年今年   英世

アドレス変更

毎朝流れるようにローマ字のメールが表示される。
何れも訳の分からぬ迷惑メールで、拒否しても拒否しても先方のアドレスを変えて送ってくる。こちらからアドレスを教えたわけでもないのに、どこでどう知ったのかその裏のネットワークがあるような気がしてならない。
英語もよく読めない私に何を訴えようと言うのであろうか。明らかにそれと分かる如何わしい誘いや、表立って売れないような薬、裏金融の案内と人の心の悪魔を刺激するようなものばかりである。中にはこちらから依頼したから送ったのだと明らかに詐欺的な誘惑さえある。
若者や判断力が衰えてきた老人が簡単に引っかかるのも頷ける。息子からは決してアクセスしないようにと厳しく言われているが、時には覗いてみようかと誘惑に駆られるのも人間の弱く悲しい習性であろう。
名誉のために言っておくが決して覗いたことはない。ただこのような迷惑メールの蔓延をこのまま許してよいのだろうかと苛立ってきたことは事実である。当局が手をこまねいているのであれば自分で防衛するしかない。思い切って自分のアドレスを変更することにした。その手続きとメル友への案内にどれほど手数を煩わされたことか。
と言って、ここに自分のアドレスをお知らせする訳には行かない。
今から萩方面へ1泊2日の旅行です。従って明日のブログはお休みです。

ウォーキングイベント

会員互助会のウォーキングイベントが海ノ中道海浜公園で開かれた。
前夜の暴風警報もどこへやら、風はやや強いものの寒くもなく絶好のウォーキング日和となり、それぞれ弁当を貰って思い思いにコースに散っていった。
公園を一周するコースで、松林や散り始めたイチョウ並木を気持ちよく歩き続けると、暫くして白く輝く砂浜に出た。海辺の潮見台と言う四阿からは玄界灘を一望することができ、その沖には相の島や大島がくっきりとその姿を横たえている。強い風の中、冬特有の白い大波がリズムカルな音と共に打ち寄せ、久々に人一人いない美しい冬の海を満喫することが出来た。
さらに歩き続けると冬の花、山茶花が半分咲き半分散りながら色鮮やかな花を付けている。所々に配した水辺には冬鳥の代表、鴨が群をなして遊んでおり、木々には鵯のけたたましい声、地上にはジョウビタキが尻を振り振り追い掛けごっこをしている。何とものんびりした風景ではないか。
そのような風景の中、私は例によって季寄せを片手に句心を募らせながらのんびりと歩いた。約2時間のウォーキングはあっと言う間にゴールを迎えた。
最後に大芝生広場で弁当を頂いた。何の変哲もないお弁当だが、青空の下で食べる弁当はいつもながら格別な味がした。

  玄海の沖の島より冬の濤   英世

多め勢

六本松一丁目のセブンイレブンの裏に「かつ煮・いし原」と言うこじんましたトンカツ屋がある。
自慢のメニューはカツ煮どん。普通のトンカツを出し汁でとじ風に煮込んだもので、おかずとしてそのまま食べても良いし、カツどん風に御飯に乗せも良い。もちろん味は絶品である。カツの他にも鯖煮や京風だし巻きの定食もあるが、一風変わったものとして中華蕎麦がある。細麺にやや甘めの和風出汁と鴨肉が3枚、これもお勧めである。お昼時の値段は全て500円、ただしカレーライスは350円と割安となっている。
この「いし原」は天神横丁北側の酒屋の西側にあった蕎麦処「多め勢」の娘さんと言っても妙齢のご婦人だが、その娘さんが経営するお店で店内には亡くなられたお母さんの写真が飾ってある。多め勢をご存知の方なら記憶にあると思うが、入り口の帳場に一段高くちょこんと座っていた老女将がこの写真の婦人で今は懐かしい思い出である。
ふとしたことから天神に勤務していた頃を懐かしく話しているうちに、偶然多め勢の話になりその縁者と分かったものである。カツ煮どんや中華そばにどことなく和風出しの味がするのはこの多め勢の影響かもしれない。
その多め勢も今は天神にはなく、お孫さんが地下鉄室見駅のそばに、手打ち蕎麦処「多め勢」としてのれんを継いで居られる。近いうちに一度訪ねようと思っている。

狐狸庵

虹ノ松原の途中から唐津市浜玉町の山道を見返の滝方面に車で走り続け、本当にあるのだろうかと少し不安になる頃その蕎麦屋はある。
今は廃校になった分校の隣に、古びた公民館を改装して10年ほど前に開店した蕎麦処「狐狸庵」である。店の前には清流が流れる四季折々の風情の中に、関西から移り住んで来た夫婦が切り盛りしている。その名の通り狸が出てきそうな寂しい山奥である。
蕎麦はつなぎを使わず、汲み上げた地下水でそば粉だけを丹念に打つ十割蕎麦である。風味を大事にするために客の注文を受けてから打つので少々時間はかかるが、待たされることだけのことはある。
捨て汁で自然を汚さないようにとどんぶりで食べる暖かい蕎麦はなく、全部冷たい蕎麦で、ざるではなくお皿に盛って来るところが面白い。希望でいただける御飯も古代米の赤米となかなか凝っている。
味は申し分なく、やや物足りない量がその味を後引かせてしまうのかも知れない。予算は1000円〜2000円。お勧めの蕎麦屋である。

  新蕎麦に遠路の甲斐を見つけたり   英世

白菜 2

白菜の続きである。大方湯豆腐の準備も終ったと冷蔵庫を開けて見ると、そこには切り揃えた野菜とぼた餅のようなつみれの塊が入っているではないか。もちろん野菜の底には白菜が山のように敷いてある。
家内は仕事の関係で夜8時頃帰ってくることが多いので、下拵えをしてくれた材料を自分で仕上げて(もちろん家内の分まで)食べるか、準備が出来てなければ自分で買い物に出かけることにしているが、この日だけは白菜を買って来たことに舞い上がってしまい冷蔵庫の確認を怠ったのである。先日鍋料理でも食べたいなと言ったことを家内が覚えており用意してくれたものが偶然重なってしまったのであろう。
家内を責める訳にも行かず神の悪戯かとつみれ鍋に取り掛かった。先ほど用意した出し汁に鶏がらスープ、つみれ、人参、白葱、白菜、春菊と粛々と手順を進め、最後に薄口醤油で味を調えて出来上がりである。やたら白菜が目立つ鍋ではあるがなかなかの出来栄えであった。もちろん一杯やることと雑炊を作ることだけは忘れなかった。
十分堪能した頃電話が鳴った。「お鍋美味しかったでしょう」。「馬鹿野郎!白菜買って帰る前に何で電話しないんだ」と言いたいその言葉をぐっと飲み込んだ。こんなことで女房と喧嘩する訳には行かない。負けるに決まっている。

  寄鍋や言ひたい言葉飲み込みぬ    英世

白菜 1

事務所の一階に「野の花学園」の事務所がある。
この事務所の前では、彼らが手作りで育てた野菜を毎日格安で売っている。例えば玉葱3個100円とかピーマン山盛り100円といった具合でもちろん無農薬である。余談だが、よく無農薬だから美味しい、手作りだから新鮮で美味しいという宣伝文を目にするが、確かにハウス物にはない露地物の太陽の美味しさがある。ただ無農薬だから美味しいと言うのはどうだろうか、言うならば無農薬だからより安全と言うべきであろう。
その野の花学園からボランティア精神も込めてよく野菜を買って帰る。今日は丸々と太った白菜が何と丸ごと150円ではないか。早速買い求め今夜は湯豆腐で一杯と相変わらず医者の忠告も聞かず夢を描いて帰った。
二人暮しには大き過ぎるので半分を隣の娘にやり、早速調理に取り掛かった。たっぷり水を張った鍋に昆布を敷き十字に刻みを入れた椎茸を入れて鍋の準備は完了。いよいよ白菜の番である。サクサクと言う如何にも歯切れの良い瑞々し音がして瞬く間に二人分の白菜が切れ上がった。豆腐もわざわざ絹ごしを求めやや太めの短冊状に切り、白ねぎも刻んで全て準備完了である。
いざ勝負の前になにげなしに冷蔵庫を開けて唖然とした。これから先は今は書く気がしない。続きは明日にしよう。

  白菜や芯の黄色の柔らかく
  障害の子の純真を白菜に    英世

大西さんを囲む会 2

その後二人とも紆余曲折を経て20年ぶりに東京で再会した。
そのころ彼は既に雲の上の人であったが、若い時と同じ様によく可愛がってくれた。もし彼や九州出身のMさんやIさんが東京にいなかったら、今の私はなくその人生も大きく違っていたかもしれない。そういった意味では運の強さを本当に感謝している。
彼の部屋は丸の内の9階にあり、窓からは皇居の杜を真向かいに見ることが出来る。普通は秘書から呼び出しの電話があるのだが、ある時など彼から私のもとに直接電話があり、取り次いでくれた女性に「今のは大西副社長だよ」と言うと、「何で大津さんに」と腰を抜かさんばかりに驚いていた。
そのような人柄が敬愛され、今回の囲む会にも男性11名女性5名が集まった。既に現役を退いた人ばかりであるが、往時を懐かしみ話題が尽きることはなかった。
これからもこの会を末永く続けていくことを確認し合った。もちろん私も皆勤し続けることであろう。

大西さんを囲む会 1

勤めていた会社の大先輩、大西さんが東京から戻ってみえたのを機に、彼が福岡に勤務していた頃の仲間と一席設けることになった。
大西さんは私が入社した頃の直属の上司で最後は副社長にまでなられた大先輩で、私はこの先輩に幾度助けてもらったことだろうか。
入社5年目、当時高卒の私たち若手社員には社内昇格試験が待ち受けており、それは大卒レベルの学力を有することが関門突破の条件であった。そこで彼は私たちを何とか合格させようと、約2年間毎晩のように教室を開いて指導して頂いた。もちろん一人で指導できるわけはなく、自分が中心になって数人の大卒若手社員が教科毎に講師をしてくれる、社内夜学システムを提案されたのである。
今でもはっきり憶えているが、学習課目は経済概論、商業通論、憲法、民法、英語の5科目と時事問題であった。もちろん夜学の後の飲み会も盛んであった。
英語が苦手だった私は、勉強のために当時流行した流通革命の時流にあやかり、「流通用語の手引」と言う原語の小冊子を翻訳することにしたが、これがまた悪戦苦闘の連続であった。なぜならば、今では当たり前となっている流通用語、例えばコンビニエンスと言った用語が、当時は日本に定着しておらず、無理やり翻訳すると返って意味が分からなくなってしまうといった具合であった。それを逐一指導して下さったのがほかならぬ大西さんであった。
今でもその小冊子は大西進・大津英世共訳として私の書架に飾られており、私の宝物の一つである。
話はまだまだありますが、続きは明日にしましよう。

チセさん

今日は小笹公民館俳句の会の藤本チセさんについてお話をしよう。
チセさんは卒寿を越えられた現役のお茶のお師匠さんで、今も小笹公民館で地域のご婦人方を指導されている。耳がやや遠くなられたが今なおかくしゃくとし、私の母より5歳も年上の敬愛して止まない母のような存在である。
そのチセさんが俳句を始められたのは10年前の82歳の時と聞く。私も59歳で俳句を始めたが、その20年も後のことで、82歳で新しいものに挑戦しようと言うのであるから驚きと言うか敬服の極みである。私は時々自分を老いに見立てて句を読むことがあるが、彼女は腹の中で「あなたはまだまだよ」とたしなめておられるかもしれない。
そのチセさんが句歴10年を記念して句集を出されると言うからまたまた驚きである。チセさんの句はお茶の先生らしく花鳥諷詠を大事にした優しい句で、きっと人生の総仕上げとして素晴らしい句集になることでしょう。出来上がったら是非1冊分けて頂こうと思っている。
今回の吟行には残念ながら欠席されたが、チセさんいつまでもお元気で俳句を作って下さい。また近いうちに吟行に行きましょう。ご健吟を祈ります。

   吾がのこる世のいくばくか春衣
   啓蟄や九十歳の顔となる     藤本チセ

十月桜

動植物園吟行のことは昨日お話したが、今日はその途中で見付けた十月桜についてお話しよう。
山の上ホテルに向かう道筋にイエズス会福岡修道院があるが、その門扉の側で十月桜または冬桜とも言われる珍しい桜の花を見付けた。俳句の世界で言う帰り花、つまり小春日の頃季節を間違えて突然数輪の花びらを付ける桜とは全然違う種類の桜で、春のソメイヨシノより一回り小さく白い可憐な花びらを付けている。
花は春の桜のように密生して咲くのではなく、枝先にぽつんぽつんとまばらに咲いている。それがまた初冬の青空に柔らかい光を放ち、まさに侘び寂びの世界の初冬の趣と言うものであろう。
たまたま通り合わせた修道院のシスターの話によると、この十月桜は毎年11月から1月頃に一回咲いて、3月頃再び咲き、二度花を楽しむことができると言うことである。修道院と冬桜、えも言われぬ落ち着いた取り合わせではないか。
俳句をやっていなければつい見過ごしてしまったかも知れない可憐な十月桜に、この季節に出会ったことに感動し、その幸運に心から感謝している。

  修道女の言葉少なに冬桜    英世

動植物園吟行

遠足のメッカである動植物園に吟行に行った。立冬も過ぎややひんやりとする天気であるが絶好の吟行日和あった。
植物園に入るとまず目に付いたのが「あっつ、花がない」。全くない訳ではないが入口の壁泉が如何にも寒々と感じられ、今日はどのような吟行になるのだろうかと一瞬不安が過ぎってしまった。
そこはそこ、日ごろ句心を膨らませている面々には私の不安などまったく関係ないことがすぐに分かった。花は少なくとも冬の風、雲、枯葉、枯芝、動物、何でも句にしまう人たちである。入園と同時にそこここに散らばって行った。
動物園は1年ぶりであったが、ここはすぐ子供心に戻ってしまう不思議な空間である。
今回私は冬の鳥を中心に見て廻った。大きく羽を広げた孔雀、とき色のフラミンゴの群、活発に泳ぐ鴨、烈しく飛び回るインコ、悠々としているが何と無く生気のない大鷲と、冬の鳥のオンパレードでここでも俳句の材料には事欠かなかった。
吟行は食事が楽しみである。兼ねて予約していた山の上ホテルで和食の旬の膳を頂いた。もちろんビール付である。酒と俳句、私のテーマでもあるから。

  老鷲の諦めきった眼して    英世

俳句の会「鴻臚」4

度々お話している俳句の会「鴻臚」で初めての句会が催された。私は残念ながら姪の結婚式で出席できなかったが、先生に不在投句をお願いして俳句会に参加した。
その初句会で詠まれた句が私の手許に届いたので早速拝見させていただいた。全員60歳以上で俳句は初めての方が殆どであるにもかかわらず、皆さんなかなかの出来栄えである。やはり俳句は小手先ではなく素直に感動を詠む事が大事だなと今更ながら思い知らされた。
句は後ほど紹介するとして、出席者の一人に聞いた話では皆さんやる気満々で和気藹々の句会であったと聞き、幹事役として前途に光明が見えて来た様な気がして胸を撫で下ろした。もちろん初心者のことですから、笑い話のようなハプニングもあったようですが、それもまた楽しいではありませんか。帰り間際に皆さん楽しかったと言っていただいたと聞き私までもが嬉しくなってしまった。
この句会が永く続くことを祈りたい。

  お十夜や母の形見に袖通し      佳子
  山茶花や日記二行の日もありぬ    貞昭
  七五三子らで溢れる写真館      和子
  小春日やいそいそと行く老いの句座  英世

放置自転車

天神から大名にかけて散歩がてらによく歩くことがあるが、気になるのは違法駐輪の多さである。
欅の木に牛のように繋いだり、店先の通路を占領したり、バス停に放置したり、やりたい放題である。特にひどいのは、有料の駐輪スタンドにさもきちんと駐輪したかのように装い、鍵をかけずに料金を誤魔化すもの、駐輪している間に無理やり割り込んで放置するもの、まったく開いた口が塞がらない。
福岡市が違法駐輪のワーストであることはこの実態を見れば当然のような気がする。
違法自転車は市が定期的に撤去し保管所に保管しているが、中には撤去したことに腹を立て食って掛かる者もいるとか。言語道断である。
一度那の津の撤去自転車保管所に行って見るとよい。6000台収容の広場が満杯で驚くべきと言うよりむしろ壮観と言うべきであろう。引き取り手もあまりないというが、全くもったいない話である。
昔は自転車を盗られ一晩中探し廻ったと言う話をよく聞いたものだが。

静雲師

NHKの俳句教室に通い始めて丁度5年たった。
俳句のはの字も知らず、いつまで続くことやらと見よう見まねで始めた俳句にのめり込んでしまい、気が付けば5年と言う一つの区切りに来ているのかと感慨深いものがあった。
そのNHKの先生や仲間と昨日の日曜日に大宰府に吟行した。私個人にとっては5年立った記念の吟行でもあり、企画はすべて私が担当した。
10時ごろに西鉄五条駅に集り、観世音寺から都府楼跡まで歩きながら俳句を作って行く。途中仏心寺という小さな寺を訪ねた。
この寺は九州俳壇の重鎮で、俳句結社「冬野」の創始者の一人でもあった河野静雲先生が晩年を過ごされた庵で、師が僧籍であったことから仏心寺と名付けられたものである。今でも師を慕う人は多く、私の句友の女性坊守さんに至っては三奈木の品照寺と言う自分のお寺に何と静雲句碑を建ててしまったほどでの惚れ込みようである。
私は既に故人となられた静雲先生にお会いしたことはないが、言わば孫弟子で、師の話は耳にたこが出来るほど聞かされ、いつしか自分もその門下生であるかのような錯覚に陥ることもあった。
仏心寺には虚子の帯塚が祀られている。静雲先生が師と仰ぐ高浜虚子のいつも身に着けていた帯を頂いて、終生の師として祀るために納めた塚である。その仏心寺も今は普通のお寺に変わり、庵の面影もなくなってしまい、折からの初冬の風の中に寂しい雰囲気を漂わせていた。それがまた句情を誘おうと言うものである。

あとやさき百寿も露のいのち哉   静雲
絶句碑に師の影偲ぶ冬野かな    英世

息子夫婦と

兄弟の多い私たち夫婦には甥、姪が多く、それがまさに結婚ラッシュである。
既報の通り10月は息子の結婚式で昨日(11月11日)は私の姉の娘つまり姪の結婚式が佐賀市であった。その日は俳句の会「鴻臚」の初の句会が開かれる日でもあったが、浮世の義理は欠かせず残念ながら欠席させてもらった。
でも嬉しいことがあった。JRかバスで行くつもりにしていたら、新婚の息子夫婦が送り迎えしてくれると言うではないか。もちろん彼らは結婚式には出ないが、ついでに佐賀市内を観光したいから好都合だと言う。多分観光したいと言うのはつけたしだと思うが。
車の中と言うのは独特の世界である。帰りの車では酒の所為もあってか私は眠くて仕方がなかったが、家内と嫁は最初から最後まで喋りっぱなし。最初は穏やかに新婚生活や料理、それに佐賀のバルーンや再建された佐賀城の話など穏やかなものであったが、果てはそれぞれの亭主の七癖にまで及ぶ壮絶なものになり、私は狸になるより仕方がなかった。
でも息子夫婦と本当の家族になれたようで、楽しいひと時であったことには間違いない。その晩はまた例の鮨屋である。私の財布は悲鳴を上げていると言うのに。今から観世音寺、都府楼周辺へ吟行に行きます。

関東のうどん

博多のうどんの話をしたら関東の話もしなければなるまい。
平成元年東京転勤になって以来約10年をかの地で過ごした。まず驚いたのが東京のうどん、蕎麦、ラーメンの汁が黒く濁っていることで、その玉はどんぶりの底に沈み上辺だけしか見えない。どう贔屓目に見ても食べられた代物ではなく、まして汁を吸おうなどとは決して思わなかった。具も竹輪のてんぷらとか春菊のてんぷらとか博多の具とはまるきり違っていた。
それでも空き腹に背は変えられず恐る恐る食べて見た。鼻に付く醤油の匂い、それに白葱、食べるにはかなりの勇気を要したが、思い切って食べて見ると思ったほど塩っぱくない。むしろ醤油の中に仄かな甘みさえ感じる。
聞けば関東の汁は鰹と昆布の出汁に濃口醤油とみりんと砂糖を加え煮立てた物であることがわかった。なるほど仄かな甘みがあるはずである。それでも黒いうどんとラーメンにはなかなか馴染めず関東ではもっぱら蕎麦ばかり食っていた。ところが住めば都で10年も食べ続けているとすっかり馴染んでしまい、今では時々黒く濁った蕎麦が懐かしくさえ思われる。
ちなみに関東風の醤油出汁の蕎麦は、天神の「飛梅」と天神から西に移った「多め勢」で味わうことが出来る。
その「多め勢」の話はまた次の機会にしよう。今日は姪の結婚式である。

博多うどん

讃岐うどんの次は博多のうどんに触れねばなるまい。
うどん、そばのルーツが博多であることは知っていたがもう少し詳しく調べて見ることにした。
鎌倉時代に聖一国師が宋から伝えたことが起源で、博多の古刹・承天寺の通用門をくぐった左手に「饂飩蕎麦発祥之地」の碑がある。ここから「因幡うどん」や「大福うどん」、「牧のうどん」、「庄屋うどん」と、いわゆる博多うどんが広まって行ったものと思われる。
博多うどんはやや太めで柔らかく、汁は昆布、鰹節の出汁をベースに薄口醤油を使っているのが特徴である。讃岐うどん派の方にはやや物足らないかもしれないが、長年親しんできた私達にはこの柔らかさが何とも言えない懐かしさがある。東京に住んでいたときも月に1、2度は八重洲口地下の博多うどんの店に通ったほどで、このうどんに具を乗せて食べるのが博多流でごぼう天と丸天が売れ筋である。
固めの腰のあるうどんが好みの方は手作りの「牧のうどん」や「庄屋うどん」でそのように麺の固さを注文することも出来る。
新蕎麦は俳句の季題にあるがうどんはない。それだけうどんが季節に関係なく広く食べられていると言うことであろう。

 東京の博多うどん屋冬温し   英世

博多の讃岐うどん

この讃岐うどんは博多でも味わうことが出来る。
県道五号線を太宰府方面に、那珂川を越えてすぐ右側の南区横手に讃岐うどんの大きな看板がある。二十四時間営業(今はどうかな?)で、早朝のゴルフの時などよく食べてから出かけたものである。ここはおでんもあり居酒屋も兼ねている。
老舗の讃岐うどんは大名にある。岩田屋本館から天神西通りを挟んだ向かい側にあり、私が初めて博多で讃岐うどんを食べたお店だと思うのだが。昭和48年ごろの話で、茹でた麺を冷水で洗うのに驚いたし、その麺の長さにも驚いた。最初に食べた肉うどんの独特の味は今も忘れられない。
最後は天神4丁目の讃岐うどん「田」。本格的な讃岐うどんを食べさせてくれる店として人気があり、料金が大衆的なことも嬉しい。税務署東側の川沿いにある細長い店で、立地にも恵まれ昼は近所のサラリーマンや公務員で、待たされるほどの盛況である。
他にも数軒の店があるとは思うが、とりあえずこの3店は私が実際に訪れ味を保証できる本場の讃岐うどんの店である。

讃岐うどん 2

息子から貰った讃岐うどんを食べた数日後、偶然NHKテレビで讃岐うどんの学校のことが放送されていた。見た方も多いと思うが讃岐うどんを食べた縁で少しお話しよう。
四国の丸亀市に職業技術訓練学校があり、その中に讃岐うどん科がある。3ヶ月のコースで年齢もまちまちであるが、何れも讃岐うどんの技を身につけてその後の人生に生かそうと言う人たちばかりである。中にはうどん屋を開店するかまたはそこに就職するために本格的に修行している人もいる。
うどんほどシンプルな食べ物はない。だが、これがまた奥が深い。小麦粉に塩水を加え、練り込み、寝かせ、伸ばすだけであるが、素人が作ったものは見た目も悪く到底食べられたものではない。
この学校で修行する人たちの人間模様を中心に、ドキュメンタリー風に構成されていたが、将来の夢を語る若者やリストラされた中年の元板長さんが、無事うどん屋を開店できるようにと祈らざるを得なかった。

讃岐うどん 1

息子から土産に生麺の讃岐うどんを貰った。もちろん作るのは私である。
現役の頃四国は私の担当であったためよく出張し、その都度この讃岐うどんを食べたことを思い出した。食べ方は冷・温と人の好みであるが、この時期はやはり温かい湯だめうどんに限る。
大鍋にたっぷりと水を入れ、沸きあがった湯に麺を固まらないようにほぐしながら入れ、10分ほど茹でて別に用意した汁につけて食べる。汁は小鉢に卵を軽く溶かし、出汁入りの醤油を少し入れて掻き混ぜるだけである。これがまた素朴な何とも言えない味わいで、麺好きの私には堪えられない至福の時である。
そばもうどんも大好きな私は、美味しいところがあると聞けば遠出をしてでもよく食べに行くが、その話はまた別の機会にして、明日は讃岐のうどん学校の話をしよう。

 酒飲みの夜食うどんと決まりをり   英世

信長の棺

「信長の棺」と言う歴史ミステリードラマを見た。
信長を死に追いやった陰謀の謎に迫るもので、信長の死後、伝記「信長公記」を書いたとされる太田牛一の眼を通して語られて行く。
信長は本当に死んだのか、そうであれば何故亡骸が見つからなかったのか。信長を暗殺したのは本当に光秀か、それとも陰で糸を引いていたのは朝廷か秀吉か家康か。ドラマではそれとなく犯人像を浮き立たせているが、本当のことは誰にも分からない。
太田牛一は後に豊臣秀吉の伝記も書くことになるが、権力者が生きているうちに書く伝記など信用できるものではない。信長のことも秀吉自身の事も大きく歪めて書かれた可能性が高いと言わざるを得ない。また判官贔屓とでも言おうか、義経ジンギスカン説、秀頼生存説のように悲劇の主人公を何とか甦らせようと言う庶民の風潮も見逃すことは出来ない。
歴史には表と裏がある。私が少々へそ曲がりなのかもしれないが、私の本棚には「騒乱の日本古代史」「逆・日本史」「豊臣家存続の謎」と言った風変わりな裏の歴史書も飾られている。

天国はもう秋ですか

天国はもう秋ですかおとうさん。
朝日新聞の「声」の欄でこの句を読んだ時、私は一瞬胸が詰まりそうになった。小学5年生の少女の読んだ句である。おそらく父親に死に別れ、日々父を恋う寂しい気持ちが天国の父親にこう呼びかけたのであろう。あたかも季節は秋、少女の目には涙がこぼれんばかりに溢れていたに違いない。きっと天国のお父さんも泣いていたことでしょう。
この少女は俳句を専門的に勉強したわけではなく、ただ学校の授業で俳句を詠めと言うことになり、自分の父を恋う気持ちを素直に口に出したものであろう。俳句とはそんなものかもしれない。この句に俳句とは何かを教えらたような気がする。
その少女も今は20歳の成人になっているはずである。おそらくこの句のように純粋で優しく美しい女性になり、今でも天国のお父さんに話しかけていると信じて止まない。
俳句を志すものの一人としてこのような素直な気持ちを持ち続けたいものである。
今日は自分の汚れた拙い句など紹介する気にはなれません。

お堀 3

裁判所の前の歩道に一見空気抜きの塔のような建物が建っている。
これがお堀の石垣跡の入口で、いつもは鍵がかかっているが土曜日には鍵を開け見学出来るようになっている。ただ、入口には案内板もなく見過ごしてしまいそうだが、運良く見つけて中に入ると年配の男性がいて丁寧に説明してくれる。
説明によれば、今残っている石垣は築城当時の本物で、その石組の技術を知る上で貴重な資料であるらしい。石垣の中段には水垢の跡と思われる汚れが薄黒く残っており、本当にお堀の石垣であったことが証明される。
自然石の石組に漏水を防ぐために、砕いた石灰石に藁を刻み込み、しっかり揉んだ液状の塩、つまりにがりで練った漆喰が塗り込まれており、当時の技術の高さを知ることが出来る。
歴史と言えば何かと戦国時代の武将を好む方が多いが、このような歴史の見方があることも知って欲しいものである。

 小春日や旧町名の路地を行く   英世

お堀 2

このお堀は舞鶴城の内堀であった。
築城時には今の1.5倍の幅があったらしいが、明治以降都市整備と共に埋め立てられ今の広さになってしまった。
舞鶴城は黒田氏の居城で、壮大な城であるが天守閣はなかったらしい。もちろん今は城址だけで、見事な城垣と潮見櫓など僅かな遺構を残すのみである。
城内には、その昔中国や韓国の使節や貿易商人を接待する外交施設の鴻臚館があった。また、陸軍の連隊や平和台野球場もあった。稲尾が投げ中西が打った西鉄ライオンズ全盛の頃の話で、今はその野球場もなくただ銅版で作った案内板があるだけである。
その埋め立てられたお堀の石垣が地下鉄工事の際に発見された。築城時の石垣で市の文化遺産として保存されており、毎週土曜日には誰でも見学することが出来る。
明日はその石垣の話をしよう。

 石垣に偲ぶ栄華や金銀花    英世
 *金銀花…すいかずらの花

お堀 1

舞鶴城のお堀がきれいになった。
先日お話した、枯れた蓮の葉を筏に乗って刈り取る作業が始まったのである。このお堀は舞鶴公園の一角で、市のセントラルパークとして大濠公園と共に市民や観光客に親しまれている。また俳句を嗜むものにとっては絶好の吟行ポイントで、私も年2・3回は出かけている。
春の蓮の浮葉から始まり、夏の蓮の花、秋の破蓮、そして様々な鳥や虫たち、大花火大会と季節と共に変化に富んだ季題で楽しませてくれた公園が、今静かに冬を迎えようとしている。
お堀は鏡のように静かで鴨の群れも蜻蛉も魚釣の少年もいない。またその水底に蓮根が木の根のように絡み合って沈んでいることなど窺い知ることは出来ない。
このあと、お堀の水面は赤い萍に覆い尽され、鴎が飛んでくる本格的な冬を迎えるのである。

  敗荷駆る筏に足の危ふしく    英世

11月

今日から11月、陰暦の10月にあたり神無月とも言う。歳時記によると冬の季題で、諸国の神々が出雲の国に集合するため神の留守と言うことで神無月と言う。従って出雲の国では逆に神有月と言う。
11月は私の一番好きな季節である。月の初めに立冬を迎えるが実際はまだ秋の雰囲気で、小春日和が続く行楽に最適の月である。紅葉もこれからで山好きの私にとっては家にじっとしておられるわけがない。久住扇が鼻、振動の滝・九酔渓、耶馬溪、近くは雷山観音、佐賀の九年庵など私のお勧めポイントで、初旬から下旬まで長く楽しむことができる。
また、11月は九州場所があり、暫く東京・両国に住んでいた私には懐かしい鬢付け油の匂いが流れてくる。
私の誕生日の月でもあり、母の話ではその朝霜が真っ白く降りていたと言うことである。この月が嫌いな訳がない。

誕生日その朝霜の烈しとか   英世

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