昨日の夜、仕事仲間と舞鶴公園に夜桜見物に出かけた。
黒田52万石の城址公園には広い園内のいたるところに今を盛りと咲き誇っている。また、天守台に続く石畳の道には枝垂桜が、天守の石垣と見事にマッチし、豪華絢爛という言葉はこのためにあるのではと思わせる。天守台に立てば、まだ暮れやらぬ城址一面に桜の花が霞みがたなびくように烟っていた。
ところがその余韻に浸っている長閑さはない。公園中至る所で花見花見の大騒ぎで、江戸の上野もかくやと思わせるほどである。
決して豪華ではない私たちの花見弁当も、こうして皆で持ちよりひろげればそれなりによく見えるものである。江戸落語の「長屋の花見」ではないが、酒の代りにお茶を啜り、たくわんを玉子焼きに見立てての花見もまた良いではないか。実際はそれより少しましだが。
時折吹く風に、花びらをコップに浮かべて飲めば、まさに平安王朝の優雅な遊びを演出してくれる。久し振りに酌む酒はゆっくりと腸に染み渡り、酔えば酔うほど至福のひと時であった。もちろんそのあとはいつもの焼鳥屋「黒田天狗」に直行である。
散り急ぐ花に急かさる想ひかな 英世
雲雀を探しに糸島半島をドライブした。子供の頃は何処にでもいた雲雀が、今はなかなか見つからない。この日もとうとう見つけることは出来なかった。
それにしてもこの当りの変貌には驚かされる。2、3年前にはよく車で通ったものだが、ゴルフを止めてからはほとんど訪ねることはなくなった。今でも長閑な田園風景が残っているものと期待して来たが、その期待は見事に裏切られてしまった。
九州大学伊都キャンパスの工事真最中である。かつての蓮根畑はきれいに整地され、所々に大きな建物が建ち道路工事もなされている。ここに大学が移転してくれば、学生も職員もそっくり移ってくる。学生が来れば生活環境の整備も必要で、マンションやコンビニ、スーパーも出来るであろう。本屋も出来るのかな。
たんぼの真中に一大学園都市の誕生を見ていると、まるで西部劇の開拓史を見るようである。学園都市と言えば格好はいいし世論も納得するであろうが、今までの長閑な田園風景は消え自然を破壊することに変りはない。人類の発展のためにはある程度の開発は止むを得ないことであるが、開発には破壊が伴うこともまた事実である。
雲雀野や学園都市になるといふ 英世
このところ軽いスランプに落ち込んでいる。体育会系だけでなく俳句でもスランプに陥ることがある。
身近な句会に出たり、投句をして見たりもするがなかなか良い結果を得られない。3年前にもこのようなことがあったような気がする。自分でも投句する前から入選しそうな気がしない。ありきたりの句で、まるで感動がない。自分に感動がないから人を感動させることも出来ない。
そう言えばこのところ、句集も歳時記もあまり捲らず、歴史書ばかり読んでいる。電子辞書を開く回数も減っているような気がする。明らかに勉強不足である。俳句は季題が命だと言うのに、季題を自分のものにし真剣に選んでいるだろうか。俳句に対する情熱は失っていないつもりだがどうもうまく行かない。
もう一度「俳句作法入門」を読み返し、初心に戻って吟行に出ることにしよう。花や鳥と言葉を交し、風に吹かれてみよう。何か思いつくことがあるかもしれない。
雲雀野やさかしまに見る筑紫富士 英世
大河ドラマの風林火山がいよいよ佳境に入ってきた。内野聖陽演じる主人公の山本勘助がとうとう甲斐源氏の棟梁、武田晴信(信玄)の家臣となったのである。
浪人の身で実戦を経験し、人脈を着々と拡げながら軍師としての基礎を固め、信念を持って武田家の家臣となったのである。これからどのような展開が待っているのか楽しみにしている。
東京にいた頃、本拠地の武田氏所縁の地を幾度となく訪れた。周囲を山々に囲まれた甲府盆地は敵の侵入を許さない天然の要害で、周辺の山に見張り用の砦は築いても、本拠地は平城の館だけであったらしい。と言うことは逆に武田軍団も外に勢力を伸ばすためには他国を侵略せざるを得ないと言うことである。
南側を富士山に阻まれ、そのうえ今川と同盟を結んだ武田氏は西、東あるいは北に出て行くことになるが、そこには上杉、北条、諏訪、村上、真田、小笠原などの豪族が待ち構えていた。しかし、このことが最強の武田騎馬軍団を作り上げたのであろう。ちなみに信玄がこれらを平定し上杉謙信と戦うのはずっと後になってからのことである。
この地で勘助が策を巡らし、信玄が駆け回っていたかと思うと、一度でいいから同じ時代に生きてみたいとも思った。
一国の主となりし富士登山 英世
孫娘の愛莉が初めて我家にやって来た。
病院で会って、初宮参りにお供をしてから3回目のご対面だが、すっかり大きくなり目をくりくりさせて私たちを見ている。20分ほど抱っこしていると腕がだんだんしびれてくるが、それも苦にならないほどの可愛さである。
今まで母親の実家で暮らしてきたが、いよいよパパとママとの三人暮らしが始まるとのことである。新米パパと新米ママは無事面倒を見きれるだろうか、夜泣きされておろおろするのではなかろうかと色々気がかりではあるが、こればかりは私が心配しても仕方がないことである。
私のことをおじいちゃんと呼ばせることは決まっているが、家内をおばあちゃんと呼ばせるかどうかでもめている。もう一人の孫娘の鈴花が家内を「ちゃあちゃん」と愛称で呼ぶのでどうもそのようになりそうである。
最近は家で飲まないことにしていたが、この日だけは特別である。愛莉のために鯛の刺身を奮発し、ビールも焼酎も約20日ぶりに買い求めた。もっとも赤子の愛莉が食べるわけもなく、食べるのは私たち大人だけであるが、それでもいいではないか、お祝い事に変りはないのだから。
ちなみに残ったビールと焼酎は息子が持って帰ってしまい、また酒なしの我家に戻った。春の夜の夢のごとしである。
嬰児に似し顔訪ね行く雛の市 英世
叶岳の麓にわずかばかりの野原があり、さまざまな春の草花が咲いている。
流れの際にはつくしも頭を出し、登山者が思い思いに摘んでいた。黄色く輝くタンポポや、三味線の撥のように実を幾つもぶら下げているぺんぺん草(薺)、それに、すみれ、蓮華、カラスノエンドウも赤紫の小さな花を咲かせている。まるで春の野の花を一同に見るような風景である。
なかでも今を盛りと咲いているのが仏の座である。深い緑の葉から20センチほど伸びた茎には、赤紫の小さな花がびっしりと付いている。野原一面に広がり、決して華やかではないが何となく心を和ませてくれる可憐な花である。
よく見ると花の一つ一つが手を合わせて仏様を拝んでいるように見えることから、仏の座と言われるようになったのである。花の日本史でもお話したが、日本人は野の花にも素晴らしい名前をつけてくれている。俳句をしていると、このような名もない小さな花に、興味と愛情が涌くから不思議である。
これからも野の花に親しみ、自然を愛する素直な句を詠みたいものである。
我が顎(あぎと)越えし子の背や土筆摘む 英世
暑いような日差しの下で予定通り会員互助会の叶岳登山を実施した。
総勢54名と予想以上の参加者で、女性も10人ほどいた。午前9時半、今宿野外活動センターに集合し、準備運動後3班に分けていよいよ登ることになった。私はこの企画の実行責任者で、ハイキングサークルの人と共に先導することにした。
全員60歳以上でそう無理も出来ない。先ず足腰に自信のない人、高齢者を先陣にゆっくりゆっくり、急がずあわてずというのが基本である。途中遥拝所や東屋、不動岩で休憩し、博多湾から福岡市内の景観を堪能したあと11時過ぎに叶嶽神社に到着した。
出発前におにぎりを配っていたので、ここで早めの昼食である。山ではなんと言ってもこの昼食が一番の楽しみである。配ったおにぎりの他にも弁当やおやつ、ビールを持ち寄り、わいわいがやがやと楽しい食事や、思い思いの記念撮影はいつもながらの風景である。
下りは渓流沿いで、尾根歩きとは違う森林浴の爽やかさである。風の音、水の音、鶯のさえずりを聞きながら無事出発点に戻ってきた。
自分ひとりであれば、尾根歩きを続け、高地山やら高祖山まで縦走するのだが、そうも行かず後ろ髪を引かれる思いで半日の叶岳登山は無事終了した。
街を出てすぐ山里や初音聴く 英世
古来日本人は花に結びつくたくさんの物語を作り出してきた。西洋には花言葉なるものがあるが、日本の伝説や諺はそれよりもやや物語風で且つ説教じみている。
例えば日本原産の紫陽花である。江戸時代後期に長崎のオランダ商館の医者として来日したシーボルトはこの花に魅せられた。紫陽花に日本女性のしとやかさと美しさを見、その花に愛人のお滝さん(楠本滝)の名を付けて「オタクサ」の名でヨーロッパに紹介した。
また、太田道灌の「山吹の里」の逸話は
七重八重花は咲けども山吹の
実の一つだになきぞ悲しき
という和歌にたとえた若い女性の話で、道灌は自分の娘にも劣る教養のなさを恥じ、その後精進を重ねたという。当時の女性の教養の高さが覗える逸話である。
紹介している「花の日本史」ではこのほかにも百合、水仙、菊など様々な花を取り上げ、その美しさや謂れ、伝説を語っているが、書き出すときりがないので今回はこの山吹までとしたい。続きはいずれ機を見てお話しするとしよう。
山百合の香に山小屋の明けにけり 英世
4月から5月にかけては、牡丹と芍薬が美しい。
いずれも中国からもたらされた花であるが、牡丹が落葉低木であることはあまり知られていない。「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」というのは華やかな美人に対する最高級の賛辞である。
牡丹は中国を代表する名花で、百花王として長く中国の国花として愛でられてきた。唐の玄宗皇帝の頃には長安の都は牡丹の花で溢れたという。日本にも奈良時代にはすでに入ってきていたが、盛んになるのは平安時代に公家や寺院で盛んに栽培されるようになってからである。
牡丹には唐津市に近い岸岳城址に悲しい伝説がある。
400年以上の昔、この地方の領主波多氏が秀吉の怒りに触れ、関東の筑波山に流された。その時城主夫人が丹精込めて育てていた牡丹が城址に取り残されたが、それを哀れに思った家来が切木村という集落の自宅に持ち帰り、移し変えたものが今日まで花を咲かせ続けている。私も見たことがあるが、まさに落城の語部と言うべき牡丹である。
今日は今から叶岳登山に行ってきます。
落城の語部なりし牡丹かな 英世
古来日本人は花を生活の一部として楽しんできた。今の世には、わざと人工的に季節をずらせて咲かせたり、一年中花屋の店頭を飾る花の何と多いことか。そんなものは面白くも珍しくもない。色や形の美しさのみに目がいって、花の心を理解しない現代人は、日本人としての文化的感性を喪失してしまった国籍不明人と言わざるを得ないだろう。
日本人には生活と密着した年中行事があり、それぞれが花と結びついている。正月7日は七草粥、3月3日は桃の花、5月5日の花菖蒲などがそれである。ただ残念なことに現代の暦では節句と実際の花の時期が合わないことが多くなっている。
また、俳句の世界でも花鳥諷詠と言うように、花は欠かせない重要な季題で、芭蕉以来幾多の俳人が花を詠んできた。花を愛で花の心を読み取ることが大事であろう。
象潟や雨に西施が合歓の花 芭蕉
一つ家に遊女も寝たり萩と月 芭蕉
などは私の大好きな花の句である。
「一月寿ぐ福寿草、二月に咲くのが梅の花、三月桜に四月藤・・・」と相撲甚句でお馴染みなの花づくしも、見事に花の季節感を織り込んでいる。力士や呼び出しの美声に合わせて唄って見るのも楽しいものである。
花水木ジャズの流るる喫茶店 英世
日本の代表的な花のもう一つが梅である。
奈良時代、ただ単に「花」と言えばそれは多くの場合梅を指した。「花」が桜となるのは平安時代以降のことで、万葉集でも梅は桜の3倍も詠まれている。
梅の原産地は中国で、日本への渡来は奈良時代になってからと言う。それが瞬く間に人気を博したのは、長く寒い冬に、桜に先駆けて咲き仄かな香りを放つからであろう。日本人には春を待つ気持ちが人一倍強く、それをいち早く伝えるのが梅の花と鶯だったからに他ならない。
もっとも、梅を有名にしたのは何といっても梅好きだった菅原道真である。「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花・・・」の句で有名な彼の悲劇を伝える飛梅の伝説は、判官贔屓の日本人の心を捉えて離さなかったのかもしれない。
また、梅は盆梅として手元において楽しむ人も多いが、なぜか桜の盆栽は少ない。梅が長くその花を楽しむことが出来るのに対し、桜は育てにくい上に花が潔く散ってしまうからであろう。
新入社員の頃観世音寺の裏に独身社宅があり、梅の便りを聞くと太宰府天満宮に総出で梅見の宴を催したものである。
菅公の思ひをここに梅の花
盆梅や筆の添へある奉加帳 英世
桜が奈良時代に日本に入ってきた頃から足利時代までは、いわば桜の文化は公家や貴族など上層階級の文化であった。庶民には桜を愛で酒を酌み交わし、和歌を詠むゆとりなど全くなかったのである。
江戸時代中期になると、上野の花見が江戸庶民の熱狂的な遊びとなり、貴賎老若男女の群集が花の下で、踊り狂うようになった。私も新入社員の頃、先輩の指示により休暇をとって朝から西公園に花見の場所取りに行ったことがある。
今ほど戸外でバーベキューなどを楽しむ余裕がなかったので、唯一花見と海水浴がその場であった。中には器用に炭火で肉を焼き、酒の燗までつけてくれるすぐれ者が必ず一人はいたものである。
私の本棚には「九州花の名所12ヵ月」という本がある。これからが盛りだけに福岡市と周辺の桜の名所をご紹介しておこう。
・布刈公園(北九州) ・甘木公園、秋月城址(朝倉市)
・舞鶴公園、西公園、南公園、油山市民の森、愛宕神社(福岡市)
・新吉野公園(篠栗町) など。
「花鳥風月の日本史」の「花の日本史」である。
日本の花の代表は、何と言っても桜、満開の桜のもと小学校に入学した思い出は60年近く立った今でも忘れることが出来ない。舞鶴公園の桜もこの時期ちらほらと咲き始めている。
戦前は軍国主義の象徴ともなり、「日本男子たるもの、祖国のために桜花の如く潔く散るべし」というのである。江戸時代後期には本居宣長が
しきしまの大和心を人問はヾ
朝日に匂ふ山桜花
と詠んで、日本の国花としての地位を確たるものにした。また、西行法師は
ねがはくば花の下にて春死なん
そのきさらぎの望月のころ
と詠んでいる。
桜は日本固有の花であるとされていたが、実際は中国の雲南省や四川省、インド、ヒマラヤの中腹なども原生地の一つであることが知られている。
ただし、ソメイヨシノに代表される美しい桜は改良に改良を加えて、日本人が作り出したものである。日本には約100種の桜が自生しているが、これらの桜から育成された園芸品種は300種を超えると言われ、なかには10月頃咲く桜もある。
天国の父母もきっとこの時期、花見を楽しんでいることであろう。
一陣の旋風に舞ひし桜かな 英世
3月17日(土)に孫の「愛莉」の初宮参りに、福岡市の護国神社に行った。
やや冷んやりするものの絶好の宮参り日和であった。見知らない人たちも口々に「おめでとう、可愛いですね」と声を掛けて愛莉を覗き込んで行く。赤ん坊は誰でも可愛いのにそう言われると殊更嬉しくなってしまうものである。
1ヶ月振りに見る愛莉は丸々と太り、順調に成長していることが覗える。聞けば体重も1.5倍になったということである。ほとんど眠っているが、時折背伸びしたり、目を開けて見回したり、大欠伸をしたりと見ていてまったく飽きることがない。
初の内孫で現時点では大津家正当の跡継ぎであるが、当人はそんなことは無関係とばかりに、愛らしい顔をして眠っている。
宮参りには母親の実家から祖母も参加し、孫一人に両親それに3人の爺婆のお供で、傍から見るとなんともこっけいに見えたかもしれないが、本人たちは至って真面目である。晴れ着に包まれたこの小さな命の成長を心から願って、大きな拍手を打った。
宮参りの後は「ホテル日航」でささやかながら宴を催した。宮参りは神社、食事会場はホテル、料理は中華と全くアンバランスな不思議な日本人であるが、これが平均的な日本人でもあろう。
初花や太鼓の音の清清し 英世
禁酒(節酒)宣言をしてから、かろうじてそれを守っている。
まったく飲まないわけではないが、今のところ酒は外のお付き合いだけにしている。例えば、先にお話したシティーウォーキングの後の乾杯、来客、会議の後の打ち上げなどに留め自分ひとりで飲みに出たり、晩酌することは止めている。
晩酌を止めるにはどうしたらよいか考えた。東京に単身赴任の時には部屋にビールや焼酎の買い置きをしなかった。あれば飲むからである。飲みたくなったら近所の居酒屋に行くことにしていたが、居酒屋は金がなければ飲ませてくれないのでおのずから限度があった。要は部屋に酒を置かなければ良いのである。
それにしても酒のない夕食は何とも殺風景なものである。まず、酒のつまみがない。必ず刺身と冷奴または湯豆腐を用意していたが、それがいらなくなった。いきなり御飯が目の前にある今までの私には考えられない、淡白な食卓である。まさに一汁一菜に近い簡素な食事で医者の言うカロリー制限にも適う量である。
食事時間も短く何となく侘しい気もするが、体の調子が良いことはてき面である。先ず夜トイレに行かなくなった。行ったとしても一回で済む。翌朝もあの深酒でぼうっとした気だるさもなくなり、すっきりした目覚めで体も軽く爽快である。
この分で節酒を続けられれば、次回の病院での検査が楽しみという、今までとまったく逆の心境である。なんとしても続けなければ。
今日は暫くして孫娘の宮参りに行きます。その話はまた明日。
戯れに一汁一菜目刺焼く 英世
ひしむらの女将からは、真砂女のことも卯波のことも何にも教えて貰っていなかった。私は普通の飲兵衛として肴をつまみ遠慮会釈なく飲み始めたが、それでもひしむらの女将が一緒だから酔っ払う訳にも行かぬと、上等の酒をちびりちびり飲んでいたつもりである。
そのうちに、女将同士が俳句や何やらと高尚な話を始めた。静かに聞いているうちに、どうもこの老女将は普通の人と少しばかり違うようだぞと気付き始めたころ、やっと素性を明かして貰った。その時は驚きというより納得すると言ったほうが強かったような気がする。
インタビューで、87歳の真砂女は「俳句とお店とどちらが大事か」と尋ねられ、即座に「お店が大事だ」と答えた。「お店は生活の糧だし、俳句では食えないから」と素直に言ったのである。そして「いつまでも若くなければいけない。私は2,3年後には死ぬだろが、死ぬまで若くしていたい」とも言っていた。もちろんこの若さとは心の持ちようを言っているのである。
これほどの俳人でもあくまでも俳句は余技だといっている。そして心の若さを大事にし、恋に精一杯生きながら現実をしっかりと見据えていたのである。真砂女が口にすると、それが妙に説得力があった。
平成15年春、享年96歳の生涯であった。
あるときは船よりたかき卯波かな 真砂女
山頭火に続きアーカイブス「鈴木真砂女」の特集を見た。女流俳人として96歳の長寿を全うした人で、その人生はまさに烈しい女の一生、女の情念であった。
千葉県に百年続く旅館に生まれ、二度の離婚と道ならぬ恋など波乱万丈の人生で、そのあまりにも劇的な生き方に丹羽文夫や瀬戸内寂聴が小説にしたほどである。
自立のために50歳で銀座に「卯波」という小料理屋を開いたが、その後も女将の傍ら、恋と俳句に生きる人生に変りはなかった。
私がその卯波を訪ねたのは、東京に赴任したばかりの平成元年の夏であった。たまたま上京してきた「ひしむら」の女将が、ちょっと付き合ってくれと言うので、入った小料理屋が卯波であった。路地のお稲荷さんの先にある小さな店で、カウンター越しにちょこんと座っていた小さい老女将こそがその真砂女であった。
当時私は俳句などにはまったく興味がなく、真砂女が何者かも知らず、その辺の女将ぐらいにしか思っていなかった。その私が今は俳句にのめり込んでいる。なんとも皮肉な出会いであった。
羅(うすもの)や人悲します恋をして
死なうかと囁かられしは蛍の夜 真砂女
ドキュメンタリーアーカイブス「山頭火」を見た。放浪の人と言うより一種の変人で、九州にも縁の深い俳人であった。ちなみに山頭火と言う俳号は中国の陰陽五行説から頂いたものらしい。
生い立ちは省略するが、その生き様はまさに自由奔放と言うか、まるで常識と言うものがない。師匠の荻原井泉水や後援者の支援がなければ到底生きて行けなったであろう。
とにかく酒がなければだめな人で、金があろうがなかろうが、料亭で豪遊し知人に迎えに来てもらうなどは日常茶飯事であった。だが迎えに行く人もその時は文句を言うが、次もまた金を持って迎えに行くといった具合で、そこには何とも憎めない彼の人間的な魅力があったのかもしれない。
大正15年に家を捨て、雲水姿で西日本を中心に乞食をしながら、先々で句会を開いた。俳句は自由律俳句で、私の伝統俳句とは異にするが、その句からは山頭火の心の叫びが伝わってくるような気がする。また先々で、酒代替わりに色紙を残しているので、放浪先はほとんどわかっている。昭和15年松山で、酒に浸りながら死んだと言う。享年57歳、波乱万丈の人生であった。
うしろすがたのしぐれてゆくか
わけいってもわけいっても青い山 山頭火
11日の日曜日、「シティーウォークinふくおか」に事務所の同僚と参加した。
福岡ヤフードームから寇の海、博多湾沿いにマリナタウン海浜公園まで往復10キロのコースを、健康のために歩け歩けというわけである。
前日吟行で9千歩を歩き、また10キロである。果たして足が持つかと心配したが、案ずるより何とかで無事ゴールインすることが出来た。
風はやや強いものの時折日差しの差す絶好のウォーキング日和で、総勢1万人の参加者が海辺を蟻の列のように連なって行く姿は壮観であった。
それにしても歩くとはなんと気持ちのいいものだろうか。博多湾から吹き寄せる春風は歩くことで火照った頬を心地好く撫でてくれるし、時折聞く鳥の声は「がんばれ、がんばれ」といっているようにも聞えてくる。
博多湾には白い大型船や小さな漁船が行き交い、沖には志賀島、能古島、玄海島など博多の歴史を彩ってきた島々を見ることが出来た。
もちろんゴールインした後のビールの味は格別であった。
鴻臚句会も発足後あっと言う間に半年がたった。皆さんなかなかの上達振りである。
そういうことで、先週の土曜日に教室から歩いて5分の舞鶴公園、大濠公園へ、総勢12名で吟行に出かけた。始めての吟行だけに皆さん遠足気分で楽しそうであった。何だ舞鶴公園かと思われる節もあるかと思うが、会員が中央区に住んでいるからそう思うのであって、熊本や長崎など遠方の俳人にとってはここは憧れの吟行地である。
このところの雪や寒さから晴天を期待したが、絶好の吟行日和とはいかず、お昼前から小雨がぱらつき出した。雨もまた吟行の趣である。全員やる気満々で、思い思いに散策を楽しみ、句想を練り、途中俳句の会「鴻臚」の名付け元でもある鴻臚館跡や植木市も見学した。なんと言っても豪華弁当付というのが楽しみであったが、その弁当は残念ながら雨のため吟行から戻って教室でいただいた。
梅には少し遅かったが、早咲きの桜やほとけのざ、ぺんぺん草、犬ふぐりなど小さな花々も咲きそろい、口々に素晴らしい初吟行だと感激ひとしおであった。
もちろん皆さん素晴らしい句が出来上がった。
焼け跡の大手門より春時雨 英世
筑後平野のど真ん中にある私の実家の周りは、見渡す限りの広大な田圃ばかりで、遥か遠くに雲仙や佐賀、筑紫山系の山並が見えるだけである。
季節になると一面菜の花や蓮華の畑で、我が家の土蔵の蜜蜂が忙しく飛び回っては蜜を集めて来る。蜜蜂は必ず自分たちの土蔵に帰ってくるが、子供の頃どうして自分の穴を間違えないのか不思議でならなかった。いや、時々間違えて二匹入ってていることもあった。菜の花を飛び回って来た蜜蜂は、全身黄色の花粉だらけで帰って来るが、蓮華やそのほかの時はきれいな体で帰って来る。
大きく黒い雄蜂と少し小ぶりで色の薄い働き蜂がいる。元来おとなしい蜂で、働き蜂が刺すことはないが、それでも雄蜂は果敢に刺してくる。それは襲ってくるのではなくこちらがちょっかい出すから刺すのである。ただ刺されてもあまり痛くはなかった。
近所の悪がきどもと、穴に潜んでいる働き蜂を捕まえては胴を千切り、腹に蓄えた甘い蜜を吸って遊んだ。今思えば残酷なことをしたものだ。母から可愛そうだから止めろと叱られたのも懐かしい思い出である。
虫のことを色々書いてきたが、私はなにげなしに「虫を殺すな、虫だって一生懸命生きている」と言うことがある。雑木林がなくなり、小川が汚れ護岸工事が進むなど、虫の生活環境が啄まれていくことが残念でならない。
蜜蜂や土塀の穴に整然と 英世
近くのため池の周りに自生の菜の花が咲き、そこで今年初めて蜜蜂を見た。蜜蜂といえば養蜂場で飼育し蜂蜜を採取している西洋蜜蜂が殆どであるが、今からお話しする蜜蜂はその蜂とはどうも違うようである。
日本で最初に蜜蜂の記述があるのは日本書紀で、1400年ほど前に蜜蜂を大和の三輪山に放ったと書いてある。当初は蜂蜜が目的ではなく仏像鋳造やろうそくを作るための蜜蝋を採るためだったと言われている。
私の実家には農機具や堆肥を入れる、崩れかかった土蔵があったが、その土蔵に無数の穴が開いており、春になるとそこからこれもまた無数の蜜蜂が忙しく出入りしていた。
記憶ではその蜜蜂は今の西洋蜜蜂より一回り小さく、腹の周りに黄色のリングを持っているのが特徴であった。もしかしたら日本書紀に言う日本蜜蜂だったかもしれない。それとも蜜蜂とはまったく別の蜂だったかもしれないが、今はその土蔵も蜂もなく確かめるすべはない。なんと言う蜂か知っている人がいたら教えて欲しいものである。それでも私たちはそれが蜜蜂だと信じ、格好の遊び相手であった。
今日は今から舞鶴公園に吟行に出かける。蜜蜂に会えるといいのだが。
浪々の企業戦士や冬の蜂 英世
日本の代表的な虫にもう一つ蝶がいる。蝶はその姿形も優雅で美しく、古くから親しまれてきた虫である。花から花へ飛び交う様を胡蝶の舞とも称えている。
古来より蝶は百花の王、牡丹と組み合わせて意匠化され、着物や工芸品の図柄や家紋に多く用いられてきた。天下統一を図った織田信長も一時平氏を名乗り、この胡蝶の紋を用いたことがある。
代表的な蝶としてはオオムラサキと紋白蝶がいる。オオムラサキは日本の国蝶であるが、実際は朝鮮半島や台湾、中国の一部にも生息している。日本の蝶の中では大型で、年一回夏に飛翔し、オスの深みのある紫の鱗翅は見事である。残念ながら幼虫がエノキしか食べないため、絶滅の危機に瀕していると言う。
一方紋白蝶は日本中いたるところに居り、春に飛び回る代表的な蝶である。今年は早くも2月末に見かけた。キャベツなどの葉に卵を産みつけ、孵化した青虫が食い散らして穴だらけにしてしまうが、それでも父は切り捨てたキャベツの葉に青虫を移して退治しなかった。やはり小さく可憐な蝶に見せられたからであろう。これもまた懐かしい思い出である。
睦合ふ蝶の高みへ昇りけり 英世
「花鳥風月の日本史」の「虫の日本史」である。
昔から日本人ほど虫との係わり合いを持った民族はいない。蛍の淡い光に先祖の霊を見、虫の音を聞き無常を詩に詠む感覚などは、到底西洋人には理解できないことらしい。西洋人にとっては、虫は単なる虫として迷惑な存在で観賞の対象とはなり得なかったのであろう。
初めて記録に残っている日本の虫は蜻蛉である。古事記によれば神武天皇がいまの奈良県国見山を巡見の折、「蜻蛉の飛ぶ素晴らしい国」を得たものだと口にしたことに始まる。
古代日本はあきつしま(秋津洲)とも呼ばれていたが、この秋津とは蜻蛉のことで、その蜻蛉はアキアカネつまり赤とんぼのことだといわれている。
また蜻蛉は他の虫を捕食する勇猛さから「勝ち虫」とも言われ、戦国武将の馬印にも多く用いられた。テレビで見た風林火山の武田の武将、板垣信方もこの馬印であった。
蜻蛉は秋の季題である。尾瀬ヶ原の八丁蜻蛉や子供の頃、蜻蛉を数えながら父母とたんぼ道を帰っことなど懐かしく思い出される。
赤とんぼその痩身を焦がしけり 英世
昨夜までたった3日間ではあるが酒を抜いた。40年来、病気入院の時以外はめったに抜いたことがなかった酒を3日間も抜いたのである。我ながら驚いている。
そもそものきっかけは、何ていうことはない単なる飲み過ぎなんだが、それでもこのところの飲み方は半端じゃなかった。
忘年会から始まり新年会、そして内孫が生まれたと言っては浮かれ、隣の孫娘が中学に受かったと言っては飲み、やれ俳句の会だの本部会議だのと理屈を並べては飲みまくった。今朝まで財布に数枚の万円札が入っていたはずなのにと小銭を数える生活が毎日のように続いた。極めつけは、行き付けのすし屋の大将そして店の飲み仲間それに私の娘婿も加わって飲みに出かけ、午前様のご帰還となったことである。
こんなことが長く続くはずがないと気が付いた時は遅かった。完全にダウンしてしまったのである。胃や口は荒れ放題、血圧は上がるは血糖値は上がるはで、流石に温厚な山本クリニックの老先生が、「いい加減にせい」と怒った。
と言うことで暫く禁酒(節酒)することにしたい。いつまで続くか自信がないので、願わくば暫く私を誘わないで欲しい。馬鹿な男の独り言であるが。
時雨るゝや酒の向かうに山頭火 英世
先週の土曜日、午後からの句会の前に護国神社の植木市を覗いた。
毎年この時期に同じ場所で開かれるもので、大濠に住んでいた頃からよく見に行っていたが、昔は今の倍ぐらいの広さがあったような気がする。都市部では植木、苗木の需要が減ってきているのだろうか。
多くは筑後の久留米市の業者によるもので、久留米市に合併した田主丸町は全国有数の植木の産地として有名で、私の友人も何人かいる。話しかけて見ると懐かしい筑後弁が聞かれた。もっとも彼らの筑後弁は北部筑後弁で、私の南部訛りとは相当の違いがあるが。
梅、松、山茶花、木蓮、ツツジ等の苗木や盆栽が所狭しと飾られており、モデル庭園もあった。その中には三椏やなんじゃもんじゃの木、馬酔木など俳句の季題に出てくるけれども、なかなか実物を見る機会の少ない珍しい樹木もあった。俳句をやっていて実物を見たことがないでは洒落にならない。勉強も兼ね楽しく過ごさせてもらった。
護国神社から飛んできたのであろう、目白がきれいな声で囀り花から花へと飛び移っていた。まさに春である。
荒縄に縛られ出待つ苗木かな 英世
さげもんを見るには柳川「御花」に限る。御花は柳川藩主立花家の別邸跡で瀟洒な館と美しい庭園が特徴である。
松濤園と呼ばれる庭園は、陸奥「松島」の景を模したもので、園内の約300本の松は200年以上の古木ばかりである。巨石を配した池には冬ともなると野鴨の大群が飛来し、間近に自然の姿を眺めることができる。
明治時代に大改造した和洋折衷の館には、宿泊施設やレストランなどと共に「御花資料館」が併設されている。資料館には大名の調度品や生活用品、武具、農機具など当時の資料が展示され、夫人の嫁入り道具や雛人形が華を添えている。もちろん土産屋もある。
この御花に飾られているさげもんは柳川随一の豪華さで、その数は優に20連を越える。普通の部屋には収まりきれず「御役間」という広間に移し、所狭しと飾られている。
さげもんに飾られる小物を調べてみた。いずれも和紙と絹を材料としたもので、桃の花、鞠、琴の爪、匂袋、小物袋、巾着、茶道具、人形、魚、鳥、果物などと女児の誕生にふさわしいものばかりである。
柳川の「雛祭りさげもんめぐり」は4月3日(火)まで開催されるので、くどいようだが、川下りと共にぜひ一度足を運ばれることをお勧めしたい。
雛廻り江戸の名残をそのままに 英世
郷里に近い古い城下町柳川では、雛祭が盛んである。柳川といえば鰻のせいろ蒸しや川下り、詩人の北原白秋で有名であるが、この雛祭もまた見事である。
ここの雛祭の特徴は「さげもん」という独特の飾り付けにある。「さげもん」とは、緋毛氈を敷いた部屋にお雛様と一緒に、天井から部屋いっぱいに下げられる、たくさんの色鮮やかな鞠や人形といった飾り付けのことである。
女児の誕生した家ではその子の幸せを願い、母方の祖母を中心に近所や親戚の女性が丹精込めて作るもので、わたしの母も初孫の誕生の時に一年がかりで作っていたことを思いだす。
本来は武家の祭であったらしいが、時代と共に商家にも普及したもので、商家の財力でいっそう豪華なものになっていったと言う。7連の紐に7個の飾であったが、人生50年の時代、これを越えるようにと真中に2個継ぎたし51個作られるようになった。
どんこ船の川下りを楽しみ、柳川藩別邸跡の「御花」でこのさげもんと博物館を見学し、鰻のせいろ蒸しを堪能するのも一興である。ちなみに昨日の昼餉はは博多リバレーンで鰻のせいろ蒸しをいただいた。
さげもんの鞠に狙いの子猫かな 英世
今日3月3日は度々取り上げている桃の節句である。節句について調べてみた。
節句とは、伝統的な年中行事を行う季節の節目となる日のことで、中国から伝わってきた習慣らしい。そのうちの五つを江戸幕府が公的な行事・祝日として定めたのが節句で今日でも日本人の生活に密着している。
1月7日の人日の節句を除き奇数月の数字が重なる日が多く、また、その頃の草花と深く結びついている。
1月7日 人日の節句(春の七種)
3月3日 上巳の節句(雛祭・桃の花)
5月5日 端午の節句(子供の日・菖蒲)
7月7日 七夕の節句(星祭・なでしこ・笹竹)
9月9日 重陽の節句(菊)
節句と草花、それぞれに意味があるが、これらの節句は本来旧暦で行われたので、現在は季節の草花と合わなくなってしまった。ただ、地方によっては今でも旧暦で行われることもある。その代表が旧暦の重陽の節句に行われる長崎おくんちで、おくんちとは元来お供日、つまりお節句の意味である。
白酒を眠さ堪へて注ぐ子かな 英世
今日は3月2日。暦を見たなら何にもないただの金曜日である。
ふと3と2の数字を見ていたら急に閃いた。3月3日が「耳の日」なら、今日は「ミニの日」だ。
ミニを辞書で引いたら、「mini」つまり「miniature」の略で、「小型の」「規模の小さい」「丈の短い」などの意味がある。それなら日本人の得意とするところではないか。米に字を書くなど、日本には素晴らしいミニの文化がある。
先ず思いつくのが盆栽、それも「ミニ盆栽」である。普通の盆栽の十分の一ぐらいの大きさで、けやき、もみじ、松などあらゆるミニ盆栽が作られている。枯山水の庭園などもその類いであろう。
おもちゃにもミニがある。その代表がミニカー。「開運!!何でも鑑定団」を見ていると幻のミニカーにとんでもない値段が付くことがある。このほかにもミニコン、ミニシアター、ミニ新幹線、ミニスカート、ミニトマト、ミニバイク、ミニ豚、ミニホース、ミニ本など数え上げたらきりがない。
調べて見ると自動車など限られた業界で、ささやかにイベントが行われているようだが、一般にはあまり知られていない。
植木、玩具、食品、ファッション、工芸品、ブック、コンピューター業界などでもっと大々的に取り上げたら消費活性化にも繋がるのではなかろうか。
「ちょろ二月」があっという間に逃げ去って、今日から三月である。
暦の上では仲春で、暑さ寒さも彼岸までの月で、寒さの残るなかにもその声を聞くと心が暖かくなるような気がする。しかし、実際は暖かさと寒さが交錯する季節で、細長い日本列島では、南に菜の花の声を聞き、北に雪や霙を聞く月でもある。その雪の下にも春の息吹は着実に成長している。今朝は特にその感が強い。
俳句の世界でも三月ともなると急に明るいと言うか、希望に満ちた句が多くなり、また、それにふさわしい季題が登場してくる。
先ず登場してくるのが桃の節句、雛祭である。
昨今は少子化の影響で一人娘の家が多く、我家の孫どももまさにその通りである。それだけにその子をいとおしむ気持ちが雛祭りという形で年々豪華になっていくのだろう。
雛人形は従来から母方の里が用意することになっているらしい。誰が決めたかは知らないが、どうもそういう習慣らしいので我家も娘の時は買って上げたが、今回は息子の子であるから、先方が用意することになるであろう。
とは言え、まだ生まれたばかりなので何にも分からないと思うのだが。
雛祭一日昂ぶり母は娘に 英世
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