十一月が終る「日田旅行」

今日で11月が終る。
この11月は何かと行事の多い月であったが、その中でも最大のイベントはシルバー人材センターの親睦旅行であった。
この旅行は会員の親睦を図るために毎年秋に実施されるもので、今年は天領日田へのバス旅行であった。
異常なほど温かい秋だと思っていたとたん急に寒波がやってきて、やや肌寒い晴天での旅行であったが、そんなことは気にならないほど楽しい旅行であった。
旅行は広瀬淡窓の咸宜園、豆田町の江戸時代の古く懐かしい街並を散策し、その後麦焼酎の工場見学で朝から焼酎の試飲とは、飲兵衛の私にとっては何とも幸せでユニークな企画であった。
お決まりの宴会は私の挨拶と乾杯の音頭で始まり、昼日中からカラオケ大会などで結構にぎわった。
私は挨拶で、「人は年々年を取っていく。幾つになっても笑顔と楽しみ(趣味)と未来への希望を持ち続けたい。来年もこの旅行に参加しよう」と呼びかけた。
この旅行が終るといよいよ師走がやってくる。

  小春日や天領日田の町の顔  英世

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一句の風景

子のくれし古希のジャケット冬温し

古希の祝いに何がいいかと息子が聞いてきたので、何でもいいよと言っていたところ、不断に着れるジャケットが良いだろうと長女と相談して決めたと言う。
濃紺のシングルで肩にやさしく着心地の良いジャケットであった。
さっそくそのジャケットを着て同窓会に出席したところ、慌てていたのか裾の仕付け糸を付けたままで、まさに買ってきたばかりだとばれてしまった。
温かい冬の日で少々のドジもご愛好だが、それ以上に子供たちの気持ちが温かかった。
2013年(平成25年)11月「季題:冬温し(冬)」

鴻臚十周年

俳句の会鴻臚が産声を上げたのは平成18年10月そして第一回句会が同年の11月11日であった。
シルバー人材センターの中で、単に仕事だけではなく何か文化的なサークルをと考えていた私は、当時始めたばかりの俳句の会の設立を思い立った。
企画を発表すると私を含めて15名の賛同者があった。現在会員は12名だが、そのうちの7名は発足時からのメンバーである。
俳句を始めたばかりの時はこの先どうなるのかなと思ったものだが、古賀伸治先生の指導を得て今では全員立派な俳人に成長してくれた。
このほど発足10周年を迎えたことから、記念吟行と「10周年記念式典」を開いた。また、10周年に寄せる各人の思いをエッセイにまとめてもらった記念の合同句集も発行した。
シルバー人材ーセンターだけに全員高齢で、鴻臚がいつまで続くかわからないが、最後の一人になるまで続けたいと思っている。

 冬めくや鴻臚十年早きもの  英世

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戦後っ子

私が完全な戦中っ子、戦後っ子でないことは自分でも自覚しており、周りの同年生まれの友人も共通の認識であることを承知している。
私が小学校に上がったのは昭和24年4月であった。まだ戦争の混乱は収まらず物資も乏しくランドセルは布製で、筆入れは金属製と言った時代であった。
買って貰ったズボンは一年も持たずに膝が擦り切れ、記念写真の時は膝小僧を手で抑えて繕いが見えないようにして撮ったものである。
先生の中にはやたら道徳とか規律に厳しく、生徒を正座させたり叩いたりするのは日常茶飯事であった。
私が今でも神仏を敬い親や年長者を大切にし、規律を重んじる気持ちが強いのは多分にそれが影響しているのかもしれない。
ところで、戦後っ子とは一体何年生まれからだろうか。
私が小学校に上がる前年に生まれた家内が、完全な戦後っこであることはその言行からはっきりしている。私が困惑するのも無理ないことである。

  戦後子戦中子とも神迎へ  英世

誕生日

今日は私の74回目の誕生日である。
私が生まれたのは昭和17年、太平洋戦争の真っただ中で「生めよ、増やせよ」の時世に、生まれた私と生んでくれた母はどれほどもてはやされたことだろうか。
ところで、今まで妙なことに引っかかっていた。「自分は戦中っ子か戦後っ子か」一体どちらだろうかと言うことであった。
戦中生まれには違いないが、終戦の時が2歳後半で戦争のことなど全く記憶にない。つまり戦中っ子とは到底言えない。
戦中っ子の意識があるとすれば小学校に上がったすぐのころ、近くの駅に復員してきた元軍人を迎えに行ったことと、そのような復員兵が先生になり何かと規律に厳しかったことぐらいである。
でも、この程度では到底戦中っ子は言えない。かと言って完全な戦後っ子ではない。その戦後っ子との違いについての考察は明日お話しするとしよう。

  戦時下の霜夜産声上げたてふ  英世

鳥飼神社と金龍寺吟行

今回の渦潮句会は、中央区の鳥飼神社と金龍寺の吟行であった。
最初に吟行した鳥飼神社は、神功皇后が新羅より凱旋し姪浜に上陸されこの地にお泊りになり、後に御社を建てて「若八幡」と名付けて祀ったのが、鳥飼八幡宮の発祥と伝えられている。
この境内には明治の政治家で自刃した反骨の士、中野正剛の凛とした像も立っている。
続いて訪ねた金龍寺は糸島の名家原田氏の菩提寺で曹洞宗の名刹である。
広い境内は禅寺らしくきれいに掃き清められ、吟行に訪れた私たちも一瞬気の引き締まる思いがした。
境内には福岡藩の著名な学者で、かの養生訓を残した貝原益軒の座像も建てられている。
その坐像を見ながらこれから寒くなっていく時節に、益軒の養生訓を噛みしめつつ、風邪などひかぬようにと静かに手を合わせた。
そのような厳粛な気分の中で詠んだ今日の一句をご紹介しよう。

  時雨来て養生訓を噛みしむる  英世

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キリンがやって来た

福岡市動物園にキリンがやって来たので会いに行った。
動物園のキリンはオスのキーボーが2016年2月に急逝(享年13歳)してからは、メスのリンダ(4歳)が一頭で寂しそうにしていた。
そこでリンダにお婿さんをということで、10月18日に名古屋市の東山動植物園からオスのキリンを譲ってもらったのである。
来園したアミメキリンの名は「ジュラ」、2016年生まれの1歳でまだ子供のキリンだが、そのジュラが11月11日(金)11時から一般公開していたので、このほど会いに行ったのである。
それにしてもキリンはでかい、子供のジュラでも体高はすでに3メートルに達するという。背の低い私からすれば羨ましい限りである。
動物園ではメスのリンダとの間で二世誕生を期待しているらしい。二世誕生の暁にはまた会いに行かねばなるまい。

  小春日やアミメキリンの背の高さ  英世

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初冬の空と文

ものを書くことが好きで毎日飽きもせず書いているが、ふと私の文章の書き方と晩秋から初冬の空はなぜかマッチしているように思えてならない。
人の文章にはいろいろ癖があって、新聞のコラムのように引用を多く取り入れ解説風に書く人、詩や歌のように流麗にしかもロマンチックに書く人、歌舞伎の衣装のようにやたら修飾語や擬音語を重ねて美辞麗句に走る人と様々である。
どの書き方がどうと言う批判はできないが、自分は初冬の空を目指すべきではないかと思っている。
私は俳句をたしなんでいるせいか虚子の平明を旨としている。
どちらかと言えば新聞のコラムのような書き方で、澄み切った初冬の空に一筋の雲が流れるような書き方を目指している。

  一筋の雲の流るる冬の空  英世

大濠公園吟行

今回の百年句会吟行は市民におなじみの大濠公園であった。
大濠公園は百万都市福岡市のシンボルで、福岡城の外堀にあたる広大な湖とその美しい景観は、いつ訪ねても見慣れたはずの私たちを魅了してやまない。ましてや、初めて見る外国の観光客などはその広大さと美しさに感嘆するに違いない。
大濠公園はこの晩秋から初冬にかけてが一番趣があるように思う。
湖を渡る風は頬にやさしく、湖面には鴨や鵜、鴎などの水鳥や大きな鯉などが遊び、空にはとんびが悠然と舞っている。
また園内には能楽堂や美術館(現在改装中で休館中)や日本庭園などの施設があり、ただ公園に遊ぶだけではなく文化の発信基地の役目も果たしている。
思い思いにランニングする人、キャンバスを拡げて絵を描く人、そして私たちのような俳人と、市民にとってはなくてはならない公園である。
この日の大濠公園を詠んだ一句をご紹介しよう。

  湖に鴨水鶏鴎鵜空に鳶  英世

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一句の風景

大根干す風の機嫌を聞きながら

子供の頃沢庵を漬けるための大根干しはほとんどの農家では当たり前であったが、最近は沢庵を家で漬けることもなくなり大根干しもほとんど見なくなった。
その大根干しを早良の民家で久しぶりに見た。
昔のように大きな丸太や竹を組んで大量に干すのではなく、10本ほどを風通しの良い物干しに干したものであった。これでもれっきとした大根干しである。
さながら風の機嫌を聞いているようであった。。
2013年(平成25年)11月「季題:大根(冬)」

茶の花

紅葉散ると同時に出された兼題が「茶の花」であった。
茶の花と言えば私は故郷に近い八女の茶畑を思い出す。なだらかな丘に拡がる茶畑を見ていると、高校時代に友人と遊びまわった景色がなつかしく甦ってくる。
普通茶の木といえば禅寺を始めあちこちの寺院で栽培されることが多いようだが、これは僧栄西が中国から茶の木の種を持ち帰り、全国に広めたことに所以しているのかもしれない。
その後日本にお茶の文化が定着し、静岡を始め宇治や八女、鹿児島の溝辺などお茶の産地が広がっていった。
晩秋から初冬にかけて茶畑は一面の白い花の丘になり、そしてそこに金の蕊を置く美しい和菓子のような茶の花を見ていると、なぜかしら心洗われる思いがしてならない。
そのような茶の花を詠んだ今日の一句をご紹介しよう。

  茶の花や裏参道の照り翳り  英世

紅葉散る

今回の硯潮句会の兼題は「紅葉散る」と「茶の花」であった。
紅葉散るは先日の鴻臚句会にも出された兼題で、それほどこの時期中心をなす季題と言うことである。
俳句の会「鴻臚」の時期は冬紅葉の盛りでまだ散るという風情はなかった。それではと少し高い場所、即ち油山のもみじ谷を訪ねたところ、十二月間近のこの日は北風に散りゆく紅葉が見事な美しさを演じていた。
冬の日にキラキラと輝いていた紅葉もこの風に散らされ、やがて静かに冬を迎えることになる。
紅葉は散りゆくさまの美しさと、やがて来る静かな冬に向って少なからずはかなさを感じるものでもある。
そのような散紅葉を詠んだ句の中から今日の一句をご紹介しよう。

  散紅葉掃くも修行の新発意  英世

俳句に出て来る母

ずいぶん前に母の十七回忌を執り行った話をしたが、その折父母を失った悲しみや思い出は年とともに薄れていくとお話しした。
それはそれとして仕方のないことであろうが、それでも父母特に母に無理やりに登場していただくのが俳句である。
母の日に登場していただくのは当然としても、そのほかでも料理の話や入学式などの子供の頃の話になるとどうしても母に登場していただくことが多い。
俳句の世界では母ものとして特に男の俳句に多いが、著名な俳人を含め男はいつまでたってもマザーコンプレックスが抜けないようである。
今日は過去詠んだ数々の母ものの句の中から、私が最初に母を詠んだ思い出の一句をご紹介しよう。

  小春日の母なき里を歩きけり  英世

俳優「寺島進」

テレビドラマはめったに見ないが、NHK大河ドラマの「真田丸」だけは楽しく見ている。生来歴史ものが好きだからかもしれない。
その真田丸の中で信濃の国衆・出浦昌相(いでうらまさすけ)を演じてきた寺島進に興味を持っている。
彼はこのところ真田丸などテレビドラマで華々しく活躍しており、私好みの飄々としたその憎めない風貌と、殺陣を学んだ正統派の演技はスポーツ選手並みの相当の迫力である。
以前は私の意識に全くない俳優で、チンピラやくざや使いっ走りの役ばかり演じていたらしいが、徐々に出番が多くなり今や押しも押されぬ第一線スターである。
先日、10年ぐらい前のドラマの再放送を見ていたら、出演者の終りの方に小さく彼の名前を見つけた。名前を憶えた今だからこそ気づいたようなものである。
私の好きな小林念持や大地康雄もそうだが、昔の映画やテレビドラマでキャストの字幕にも載せてもらえなかった役者が、努力に努力を重ね一流の俳優になっていくことに、希望というか喜びと言うか何かほのぼのとしたものを感じている。

  迫力の演技に押され新酒酌む  英世

紅葉散る

散紅葉とも言うこの季題は、すっかり紅葉し終えてひたすら散り急ぐ紅葉のことを言う初冬の代表的な季題である。
川の面に流れゆく紅葉、水の底に美しく透けて見える紅葉を散紅葉として詠むこともあるが、やはり一瞬の風に輝きながら散ってゆく様、地上に美しく散り敷くさまを言った方が、散紅葉らしいように思う。
この紅葉散るあるいは散紅葉を観たさに西公園のもみじ谷を散策したが、温かいこの地ではまだもみじそのものが紅葉しきっておらず、冬紅葉とは言え初紅葉の趣であった。
なお、秋の季題に「紅葉且つ散る」があるが、これはまだ紅葉し尽していない木から、時折はらりと落ちる紅葉のことで、先日訪ねた西公園はまさにこの紅葉且つ散るという雰囲気であった。
そのような中で詠んだ紅葉散るの一句をご紹介しよう。

  紅葉散る大横綱の力石  英世

立冬

今回の鴻臚句会の兼題は「立冬」と「紅葉散る」であった。
まず立冬であるが、言うまでもなく冬に入る日で、今年は11月7日であった。今でもはっきり覚えているがその日は穏やかな青空で、立冬と言うよりはまさに小春日和と言った感じであった。
それでも北の国からは早くも雪の便りが届き、この暖かい九州でも冬と聞くだけで心が引き締まってくるから不思議である。
これから日差も弱く日暮れも早くなり、特に朝などは思わぬ冷気に首をすくめるようになり、本格的な冬を迎えることになる。
そのような今朝の冬を詠んだ句の中から今日の一句をご紹介しよう。

  旅心潰えぬままに冬に入る  英世

会社OB会

長年勤めた会社のOB会、その名も「白寿会」に出席した。
この時期はこの公式なOB会と、私を育ててくださった元副社長を囲む私的なOB会があるが、私は白寿会の方に出席することにした。と言うのも元副社長もこの白寿会に出席され、そこで会えるからである。
久しぶりに出席したその白寿会では懐かしい同僚、先輩、後輩の面々が顔をそろえ親しく久闊を叙することができた。
彼等と話しているうちに、遠い昔に天神ビルにあった会社で面接を受け、晴れて採用されて初出勤した時のことがなつかしく思い出された。
右も左も分からない田舎者の私を、曲がりなりにもまっとうな社会人に育ててくれたのもこの会社であり、退職後も退職金から年金、健康保険まで面倒を見てくれたのもこの会社である。
そういった意味では感謝してもしきれない会社で、その会社が今も一部上場企業として健在であることを素直にうれしく思っている。

  久闊や祝の席の菊香る  英世

「くまモン」の悲しみ

昨日は熊避け鈴の話をしたが、そんなのんびりした話ではなく、身の毛のよだつような出来ごとがあった。
この夏の初めごろ東北地方で山に筍採りに行った人が相次いで熊に襲われ命を落とした。しかも射殺した熊の腹から人の肉片と思われるものが出てきたという。
新聞はこぞって熊が人間を食物の対象として認識していたとすればゆゆしきことだと報じていた。
一方、九州では熊が祖母山を最後に絶滅し、熊に対する恐れはなくなったが、絶滅しただけに熊を懐かしみ身近な動物として愛してきた。
特に熊本県はその名の由来から熊に対する親愛の念は強く、「くまモン」というマスコットキャラクターまで誕生させ、今や日本中で大人気になっている。
その「くまモン」も大地震に次いでこの話を聞いてどんなに悲しんでいることだろうか。

  絶滅の熊の話も祖母山なれば  英世

熊避け鈴

図書館で古い俳句誌を読み漁っていたところ、「鈴」と言う詠題の投句コーナーがあった。
そう言えば私の部屋にはたくさんの鈴がある。
神聖なものでは出雲大社や熱田神宮のお守りの鈴、英彦山土鈴、遍路や巡礼用の持鈴などがあり、海外で求めたものにはカウベルや栓抜きに鈴のついた珍品まである。
他に単なる飾りの鈴もあるが、その中で私は熊避け鈴に一番愛着がある。
熊避け鈴は尾瀬ヶ原をハイキングした時に実際に熊に出会い、その経験から高山用のリュックには必ず大きな鈴をつけて歩くようにしたのである。
実際にこの鈴をつけたリュックで谷川岳や奥日光など関東から東北の山々を歩き回った。
また、鈴をつけたまま町を歩くとチリンチリンと大きな音がするので少し恥ずかしかったが、その都度付けたり外したりするのが面倒でそのままにしていた。
九州の山を歩くようになってからも、熊がいないことはわかっていても、祖母山や九重の山々にはそのまま鈴をつけて登った。
その鈴もそろそろ外して良いかもしれない。
ちなみに私の孫娘の名前は鈴花である。

  熊を見し噂飛び交ひ冬に入る  英世

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一句の風景

ねんねこの足のはみ出す日和かな

この兼題が出た時に今時ねんねこなど使う母親がいるのだろうかと思っていたら、ある女性が今のねんねこは前にするんですよと教えてくれた。
そう言えばこのごろの赤ん坊はほとんど前にぶら下がり、母親と対面するようになっている。
前と後ろ、どちらが理屈に適っているのだろうかと考えてみた。
私たちが背負わされた背中のねんねこは、何かというと赤ん坊の体重が重たく背中にのしかかってくる。そういった意味では前にだっこの形が赤ん坊のためにはいいのかもしれない。
と思っていたら、新聞の投書におんぶの方が親と同じ視線でものを見るので子が良く育つとあった。
そんなことを考えるほどの穏やかな日和であった。
2013年(平成25年)11月「季題:ねんねこ(冬)」(2016年11月10日発表)

私の本棚外園威雨句集「笹鳴」

太宰府天満宮を訪れるといつも一つの句碑を拝することにしている。
  神の塵みな美しき初箒  威雨
それはホトトギス同人で冬野の重鎮でもあった外園威雨先生の句碑である。
重鎮だったというのは、その威雨先生はすでに今年の七月に虚子のもとへ旅立たれていたからである。享年92歳であった。
私は威雨先生とは一面識もないが、なぜか彼の句集が福岡市立図書館にあることは知っていた。それだけに彼の死を知ってから無性にその句集を読みたくなったのである。
さっそく手に取り来歴に目を通すと、彼は旧制高等学校四年(15歳?)の頃に虚子の俳句に感銘を受け、何と75年以上もの長きにわたり句作を続けられて来た。私の句歴はたったの15年、較べようもないしこれに追いつくことは到底できない。
句集を読んでいるうちに何となく懐かしさというか親しみを覚えてきた。
よくわからないが、それはいずれの句も虚子の影響を強く受けていると感じたからである。
句集を読み終えて、私もこのような写実的で美しく素直な句が詠めればとつくづく思った。

  時雨るるや直立不動の威雨句碑 英世

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愛莉の学習発表会

小学四年生の孫娘愛莉の学習発表会、つまり昔で言うところの学芸会があるというので、愛莉の両親と早朝から学校に行った。
愛莉の演技はクラス全員による銀河鉄道スリーナインなど三曲の演奏と合唱で、いずれも小学生とは思えない見事な演奏とハーモニーであった。。
愛莉は、一曲目は鍵盤ハーモニカによる演奏、二曲目が合唱、三曲目がリコーダーの演奏で、私も久しぶりに父親になったような気分で聴き入っていた。
本来なら演奏している彼女のアップを紹介したいところだが、四年生になってからは顔のアップはしない約束なので、集合写真でのご紹介に止めたい。
ちなみに愛莉は写真の上から三列目の左から二人目の、大きく口を開けて歌っている黄色い服と赤いリボンの女の子である。

  笛太鼓奏で秋季の発表会  英世

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姪浜吟行

今回のたんたん句会は西区姪浜で、この日は秋晴れの絶好の吟行日和であった。
いつも言っているように、この句会は時々最寄りの地下鉄の駅に集合しその街を当てもなく吟行するものである。テレビのタイトルにある「ぶらり散歩」や「ぶらり途中下車の旅」と言ったところだろうか。
姪浜は今でこそ都市化し、さらに福岡市の離島を結ぶ港としてもにぎわっているが、かつては漁業を生業とした小さな港町で、その面影が神社やお寺などに今でもかすかに残っている。
今回はその中の名刹「興徳寺」と、かつてその宿坊であった旧旦過町だるま堂を訪ねた。
興徳寺は文応元年(1260年)に、時の鎮西探題である北条時定が建立した臨済宗大徳寺派の禅寺で、広い境内には樹齢も分からないほどの大木が茂り、いかにも禅寺らしい荘厳な雰囲気を保っていた。
寺の小さな池には番の鴨が音を立て着水し自分たちの新居としていたし、裏山には沢山の薪が積まれて早くも冬用意がなされていた。
例によって姪浜を詠んだ吟行句の中からこの日の一句をご紹介しよう。

  宝前に点す一灯石蕗の花  英世

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ピアノバー

昨日お話しした鴻臚会員の米寿のお祝いのあとで、みんなで久しぶりに二次会に行った。
場所は西中洲にある「ピアノバー・グリーン」で、この店の常連客である鴻臚会員の一人が予約してくれたものである。
西中洲とは言え中洲と名のつくところに行くのは久しぶりで、ましてやど演歌調の私にはまったくと言っていいほど縁のないピアノバーである。どのような雰囲気だろうかとワクワクしながら行って見ると、期待にたがわず素晴らしいお酒とライブであった
この日は、店のオーナーでもあるジャズピアニスト蓑田晴彦氏(この人のことは全く知らなかった)のピアノ生演奏と、ジャズシンガー黒木ゆみさん(この人のこともまったく知らない)のジャズボーカルであった。
お店はぎっしりと満員で、よく見るとあまり若い人はいなく、むしろ私たちと同年代と思われる客が多かった。
カクテルを片手にジャズのピアノ演奏と、美しく堂々と歌い上げるボーカルを聞きながら、久々にくつろいだ中洲の夜であった。

秋の夜やジャズを奏づるピアノバー  英世

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米寿のお祝い

米寿のお祝い
先日、俳句の会「鴻臚」の女性会員の米寿のお祝いを例の割烹「ひしむら」で行った。
この句友は「鴻臚」発足当時からの七人のメンバーのうちの一人で、私を助けて長く鴻臚を引っ張って来てくれた人であり、エゾシカを御馳走してくれた人でもある。
米寿と言えば当然昭和初期の生まれで、当時は戦争一色で暗い青春時代を送ってきたことであろう。ところが、彼女はそのことにはあまり触れず、今は余生を楽しみ明るく生きている。
日常は旅を楽しみ、俳句はもとより絵も筆も写真も才能十分である。また、この年の女性には珍しくパソコンを使いこなしている。言うところの才色兼備とは彼女の事ではなかろうか。
何時までも元気で俳句を楽しんでもらいたいと願わずにはいられない。
なお、この日の祝いの膳は写真の通りだが、彼女のお陰で松茸の土瓶蒸しなど秋の味覚を存分に味わった。
それにしても、このようなことでもなければ「ひしむらに」めったに行かなくなってしまった私である。

  米寿とてまだまだ元気照紅葉  英世

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冬野十一月号

早々と冬野十一月号が手元に届いた。
相変わらず雑詠欄の成績は散々であったが、読み返して見るとそれもやんぬるかなといった駄句ばかりであった。その時はいい句だと思ったのに。
その分、冬野集では「天国の父と・・・」の句に選者の評を頂いたので、それで帳消しとして自分を慰めた。
例によってその他の句会の入選句と共にご紹介しよう。
冬野十一月号
 魂を揺さぶられたる花火かな
 秋蝶の鉄条網を抜けにけり
 星一つ流れ都会の隈に住む
 露けしや一人欠けたる夜の句座
 盆唄のこころ奏づる七五調
 朝顔かと軽くつぶやき庭手入
 天国の父と酌みたし遠花火
 七夕や笹のはみ出す軽貨物
 濡れ色に艶めく朝の芙蓉かな
 化野の風の騒めき竹の春
 深紅とてどこか翳りの秋の薔薇
冬野インターネット俳句会
 紙と言ふ文化危ふし秋灯下
 望郷の歌を唄ひて惜しむ秋
俳句ステーション
 化野の風の騒めき竹の春
 よそ者も身振り手振りの阿波踊
 すぐそこと一キロ先の里の秋
愚陀仏庵インターネット俳句会
 自動ドア日傘の花を呑み込めり

冬野俳句大会

私の所属する俳句結社「冬野」の年一回の俳句大会が11月3日に開催され、当然私も出席した。
大会は例年10月に開催されるのだが、今年は会場の都合でこの日になったものである。ところがそれが幸いしたのか、これ以上ない絶好の秋晴れとなった。
大会はいつも通り事前投句の部と、近くを吟行しての当日句の部で行われた。
私も8月に事前投句をしていたが、主宰の選にかろうじて一句入っただけであった。
こうなれば当日句にと期待したが、こちらは全滅で世話役で忙しかった所為だと自分を騙して慰めてしまった。
いつも思うことだが、事前投句の部は別にして当日の吟行句に写生の新鮮さを感じる。やはり俳句は机の上でなく、外を歩き目で見て心で感じて詠むものだと実感した。
主宰の選に入ったこの日の唯一の句を今日の一句としよう。

  那智の滝視線上げたり下したり  英世

エゾシカの肉

先日、俳句の会「鴻臚」の先輩女性のお家に句友数人でお邪魔し、昼間からお酒となってその折エゾシカのすき焼きを戴いた。
エゾシカつまり北海道の鹿の肉である。
鹿の肉を食べたのは現役のころ友人と奥鬼怒の加仁湯温泉に遊び、そこで熊の肉と一緒に食べて以来である。
昨今はシビエとか称して野生動物の肉を食する向きもあるらしいが、日本ではまだまだ定着していないようである。
エゾシカの肉は脂身が少なくその上柔らかい。加えてその美味しいこと、これが言うところのシビエとは思われない美味しさであった。
日本でもシカやイノシシの横暴に困り果てているという。何とかそれらを捕獲し食することが普段の生活になればと思ったりもしながら美味しく戴いた。
なお、俳句や和歌の世界では鹿は秋の季題となっているが、それは主として鹿の鳴声を意識している。果たして鹿の肉が俳句になるのだろうか。

  宮島の鹿も野生に目覚む頃  英世

初冬の花ごよみ「枇杷の花」

冬になると温室物は別にして花の種類が極端に少なくなるが、その中で頑張っているのが枇杷の花である。
おまけに枇杷は花が咲いて実が生り、食べられるようになるまでに半年以上も掛かる不思議な植物である。
ところがこの枇杷の花ほど花らしくない花はない。
枇杷はもともと暖地性の植物なのに、なぜか寒さの到来する前に花が咲き始め、そのまま冬を越す。
絨毯のような毛に覆われた蕾が割れ、黄色味を帯びた白い五弁の花を咲かせるが、枝先にびっしり咲いていても人目を引くことはほとんどない。
少し寂しげな気もするが、甘い芳香を放ち冬の日射しの中で精いっぱい咲き続けている。
目立たないこの花に注目するのは、私のようなもの好きの俳人以外にはいないのではなかろうか。

  花らしき花にあらねど枇杷の花

十一月に入る

今日から11月そして私の誕生月でもある。
誕生日のことについては後日触れるが、どうもその日の朝は霜が真っ白に降りていたと母から聞いたことがある。まさに霜月であった。
誕生月だということだけではなく、私はこの11月が大好きである。何故かと言えば、農家にとってこの11月は比較的農作業が少なく、父母が良く自宅にいたからである。
ただそれだけのことであるが、子供にとってそれが嬉しかった。別に一緒に遊んでくれるわけではなく、ましてや勉強を教えてくれる訳でもなかったが、ただ家にいてくれるだけで何となく安心感と言うか嬉しかったのである。
また、この11月は農家にとって収穫を感謝するお祭りの季節でもあった。
自分の村の祭りだけに飽き足らず、悪童と一緒に近所の村の祭りまでよく遠征したものである。
懐かしい思い出とともにいよいよ冬がそこまでやってき来た。

  週三日勤め勤労感謝の日  英世

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