四月が終る

今日で四月が終るが、今年の四月ほど多くの花を見た年はなかった。
桜や牡丹を始め野の花などにもたくさん出会ったが、その中で少し気になる花があった。
野原の何処にでも咲く小さなピンクの花で、その花の名を知りたくて図鑑の春の項を丹念に調べているうちにやっとその花の名が分かった。
華鬘(けまん)すなわち紫華鬘であった。
また面白いことも分かった。同じ華鬘の字を使ったものに華鬘草なる花があったが、華鬘と華鬘草は全く別の花だということであった。
華鬘(けまん)とは仏殿の垂れ下がった造花状の飾りのことで、いずれの花もどうやらその華鬘に似ているところから名づけられたらしい。
花に詳しい人なら「な~んだ」と思われるかもしれないが、私には大発見であった。
自己満足で華鬘の話をしたが、私にとってはその花のことを知ることができた素晴らしい四月の締めであった。

  華鬘てふ花に出会ひし四月かな  英世

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一句の風景

うららかや老々席を譲り合ひ

私はある句会に行く時に、いつも一人の老婦人と一緒にバスで行く。
その婦人は少々腰が悪く、歩くのが大の苦手でバスに乗って立っていることなど到底できない。
本人はタクシーを使いたがるが、私は彼女のためにと無理にバスで行くことをすすめている。
ある日バスに乗ったところ思った以上の混みようで、思わず私は「誰かこの人に席を譲ってください」と声を上げた。
若い連中がさも珍しそうにじろじろ見ている中で、初老の女性が席を立ってくれた。
私は若い人ではなく老婦人が席を譲ってくれたことに複雑な思いであった。
窓の外がうららかな春の日であっただけに。
2014年(平成26年)4月「季題:うららか(春)」

長距離運転

少し前の話だが、久しぶりに長距離運転をした。
郊外の遠賀川まで走らせたのだが、その距離たるや往復約100キロ、時間にして約4.5時間であった。目的地での所要時間は30分程度だったので、ほぼ4時間フル運転したことになる。
高速道路を走れば100キロなんかあっという間だが、何しろ渋滞の市道を走るのだから、時間のかかることかかること。
しかも、久しぶりに走るルートで道路事情は変わっているし、カーナビは5年間ほど更新していないので当てにならない。実際、目的地を行き過ぎてUターンすると言った失態であった。
ただ、良くなったのはトイレ休憩である。次から次にコンビニがあり、昔のようにトイレを探しまくる必要は全くなかったし、飲み物も簡単に手に入れることができた。
それにしても疲れた。元来運転が好きだったのに、気を使い過ぎたのか体力の衰えからかぐったりと疲れてしまった。
この分では運転免許返上も近いかもしれない。

  久々の遠出運転花は葉に  英世

四度目の舞鶴公園吟行

昨日の渦潮句会の吟行はまたまた舞鶴公園であった。
もう口にするのもどうかと思うほどであるが、それはそれなりに楽しいものである。
この日は大雨が心配されたが、降ったりやんだりの小雨で、その雨が若葉や牡丹などの埃を洗い流して眩しいほどの吟行日和であった。
いつものように大手門に集合し、まず牡丹・芍薬園を巡ったあと城址を吟行したが、城内はいま藤の花とつつじが満開で、これほどの藤の花を見たことはないと感嘆の声を上げてしまった。
また、春も終わりと言うことで城内は雨に洗われた新緑が美しく、城の石垣には蝸牛が何匹も這っていた。
何時もは季節にこだわる先生も、この日だけは見たものを詠もうと初夏の季題を先取りすることを容認された。
季節の先取りはせずに詠んだ私の今日の一句をご紹介しよう。

  城垣や戦火の如くつつじ燃ゆ  英世

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百千鳥

硯潮句会のもう一方の兼題は「百千鳥」であった。
春の野山や人里を問わず、たくさんの名のある鳥が鳴きかわすことを百千鳥と言う。百とはもちろんたくさんのと言う意味である。
春の似たような季題にさえずりがあるが、さえずりは鳥の鳴き声を主とした季題であるが、百千鳥はたくさんの鳥そのものを呼ぶもので、その色や姿までに及んでいるような気がする。
鶯、四十雀、雲雀などの春の鳥を個々の名前でなく、全体を捉えて百千鳥と呼ぶところをどう詠むかである。
その百千鳥を詠んだ今日の一句をご紹介しよう。

  参道に馬蹄の響き百千鳥  英世

桃の花

昨日は月曜日で仕事もないので脊振山に登るつもりで車を走らせていたところ、何を勘違いしたのか車は油山に向かって走っていた。習性とは恐ろしいもので、仕方がないので脊振山は後日にして目の前の油山に登った。
怪我の功名とでも言おうか、この日の油山は新緑がまぶしいくらいに美しく快適であった。
さて、今回の硯潮句会の兼題は「桃の花」と「百千鳥」であった。
まず、四月の花ごよみでご紹介した桃の花だが、お隣の中国では梅・桃・牡丹の花見が昔から盛んで、特に春の花といえば桃の花をさして呼ぶことが多いようである。
日本で花見と言えば桜であるが、それは日本人が昔から桜に馴染んでいるだけであって、桃の花も捨てたものではない。
事実、古事記にはイザナギノミコトが黄泉の国から逃げかえる時に、桃三個を投げて鬼を追い払った話がある。
また、果樹園の満開の桃の花を見ていると、その桃園の下で兄弟の契りを結んだ三国志の英雄たちにも頷けるものがある。
その桃の花を詠んだ今日の一句をご紹介しよう。

  母の背に顔を隠す子桃の花  英世

今日は月曜日

今日は月曜日である。
週のはじめと言うだけで別に普段と変わりはなさそうなものだが、私にとってはこの月曜日は特別な日なのである。
と言うのも月曜日はほとんどの施設が休みで、図書館はもとより動植物園も休みで一日中退屈してしまうからである。
この日に仕事が休みの場合、ましてや雨降りの日などは本当に何をしていいかわからず迷ってしまう。
女性であれば地下街やデパート巡りもあろうが、私にそんな趣味はない。
だが、待てよ。自然に休みはない。周辺の山々や野原、河川敷に休みと言うことはない。そうか今日は天気もいいし、このような日こそ山に登ればいいのだ。
このブログを書き終えたら久しぶりに脊振山に登るとしよう。

 春の山しばし無聊を慰めむ  英世

私の好きな一句

戒名は真砂女でよろし紫木蓮  真砂女

以前、俳句のはの字も知らないときに鈴木真砂女の割烹「卯波」を訪ねたことをお話ししたが、それ以来彼女の句には注目して読んでいた。
彼女の強烈な個性は「羅や人悲します恋をして」に窺われる。純愛ではなく不倫と言う愛の葛藤を彼女なりの俳句にしたものである。
そのような真砂女であるが、反面物事にこだわらないさっぱりとした性格も持ち合わせているのではなかろうか。
死んでしまえば何もかも終わりである。死してもっともらしい戒名などいらない。
この句はそのさっぱりした性格を好きな紫木蓮に託して存分に発揮した句だと言えよう。

  木蓮や真砂女の卯波とは知らず  英世

染み抜き

少し前の話だが、愛用の薄手のジャケット(少し高級)の左肩にべっとりと染みを付けてしまった。家内からこっぴどく怒られたのは当然である。
染みの原因は明らかで、酔っぱらって壁か何かに寄りかかり、その折に黒い塗料を付けてしまったのである。
今日は三隣亡かと嘆いていたが、いずれにしてもこの染みを取らなければならない。
私は安易に考えて何時ものクリーニング屋に染み抜きを依頼した。ところが結果としてこの染みは取れないと言って代金を返してきた。
私はどうしてもあきらめきれず、人の話を頼りに染み抜き自慢の店に持ち込んだ。
その店は染み抜きをすれば元の色まで抜けてしまうので、改めて同色を部分的に染め直すと言うものであった。
料金は3千円と法外なものであったが、見事に染み抜きができ元の姿に戻ったことに満足し感謝している。
天気のいい今日あたりこのジャケットを着て春の風を満喫するとしよう。

  春風や薄手のジャケット着ることに  英世

髪油

髪油と言っても今の若い人には「何のこっちゃ」と言うかもしれないが、私たちの若い頃は整髪料のことを髪油と言っていた。
理髪店に行っても「油は何にしますか」と聞かれたものである。最近は髪が少なくなったこともあって、ここ十年来洗髪してもわずかのヘアトニックだけで、髪油を付けたことはなかった。
ところが、ある日公式行事があると言うので、朝シャンをして出かけようとしたところ、急に髪油を付けようと思いたった。全くの気まぐれである。
残り少ない髪に油を付け七三に分け(たつもり)で颯爽と出かけたまでは良かったが、帰ってきてからが大変であった。
鏡を見ても別に変っところはないのだが、なんとなく髪が埃っぽい。春の風に巻き上げられた埃が油べったりの髪に絡みついているような気がして仕方がないのである。
夏ならばともかく春のこの時期に、一日に髪を二度洗ったのは初めてであった。

  髪油にからまる春の埃かな  英世

一句の風景

永き日の悠々自適といふ無聊

昨日はあまりのうららかさに急に思い立って、約30分歩いて近くの日本庭園「友泉亭」を訪れた。新緑の眩しい光を愛でながらお抹茶をいただき、庭をゆっくり散策してのんびりとしたひと時を過ごした。
さて、今日の一句はそんな昨日とは打って変わって、春の日永にすることもなく退屈な雨の一日のことである。
じっとしていることのできない私は晴れていれば植物園に行ったり山に登ったり近所を散歩したりするのだが、この雨ではどうしようもない。
定年退職後、別に経済的にゆとりがある訳ではないが、他人から見れば悠々自適の老人に見えるだろう。
ところがこれほど退屈なことはない。
俳句関係の本を引っ張り出したり新聞を読み返したりしても、私の無聊を慰めることは出来なかった。
2014年(平成26年)4月「季題:日永(春)」

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囲碁を再開した

会社に入ってすぐのころ先輩から囲碁を教えてもらい、それ以来昼休みになると毎日のように碁を打っていた。
少しは上達したかと思っていたころマージャンを覚え、ゴルフを覚えて囲碁からはすっかり遠のいていたが、それでもNHKの囲碁番組はよく見ていた。
その囲碁を再び始めることにした。
といっても相手はインターネットの無料ゲームである。頭の隅に残っていた定石を引っ張り出して暇な時に対局しているが、昔のようには頭がすぐには回転しない。
何でもないミスをしたり、大局を見失ったりと悪戦苦闘していたが、徐々に勘が戻ってきたのか、勝ったり負けたりのいい勝負である。
誰に迷惑をかける訳ではく、暇つぶしが一つ増えたようなものである。

  碁敵はパソコン画面うららなり  英世

私の好きな一句

春の海ひねもすのたりのたりかな   蕪村

蕪村らしいゆったりとした句である。
この句は、後日蕪村の苗字になった丹後与謝の海を詠んだともいわれている。柔らかな日ざしのなか、波穏やかな与謝の海が広がっている。海上に浮かぶ天橋立にはのたりのたりと春の波が寄せている。
その風景を思い浮かべるとまさに蕪村の絵を見ているような気持になる。
芭蕉が「荒海や佐渡に・・・」と荒々しく詠んだのに対し蕪村は「のたりのたり」と詠んでいる。
勿論詠んだ季節が違うのでその表現も自ずと違うのであろうが、私には蕪村のやさしさが表れているような気がしてならない。

またまたまた舞鶴公園吟行

昨日の百年句会吟行はこの春三度目の舞鶴公園であった。
この日は昨夜の大荒れの天気から一転して春らしいうららかな吟行日和で、残りの桜や咲き始めた藤の花などを愛でながら気持ちよく吟行することができた。
例年ならとっくに桜は散ってしまっているはずなのに、今年は出だしが遅かったせいかまだまだたっぷりと楽しむことができた。
特に城内一杯に咲き誇る八重桜は、今が盛りで触れれば零れるほどの咲きっぷりであった。
一方、牡丹園では本来五月のはずの牡丹が次々と花を咲かせ、緋や白のボタンを見ているとさすがに花の女王だと、その妖艶さにうっとりとさせられた。
この牡丹をどう詠むかだが、春の牡丹では説明的で弱すぎる。ここは季節を先取りして強く詠むしかないと覚悟を決めた。
今日はその牡丹の一句をご紹介しよう。

  ぼうたんにため息深き漢かな  英世

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シルバーOB会

私の三度目の職場はシルバー人材センター事務所であった。福岡市シルバー人材センターは福岡市の各区に事務所を設置している。
シルバー人材センターは会員制なので正式な社員ではない。会員は概ね外部作業や室内作業に従事する訳だが、事務所員はその会員の中から適材を選んで、会員の就業先の紹介や手助け事務処理などをするのが任務である。年限は約3~4年で時期が来れば交代する。
一昨日、その中央区の事務所で仕事をしていたメンバーが集まり、それこそ第二の職場OB会を開いた。
集まったのは私が所属していた4年間に机を並べていたメンバーばかり12人で、なぜかこの年代だけが毎年OB会を開き、今でも交流を深めている。
シルバー以前のそれぞれの経歴はまちまちで、近況報告の他にこれまでの生き様の話なども飛び出して、破顔一笑の和気あいあいの宴席であった。
次回は7月に開こうと約束した。

  本当だ本当だよと春の宴  英世

久しぶりの油山

一昨日、久しぶりに油山に登った。
いつもそうだが、朝目覚めるとカーテンを開けてその日の天気を確認することにしている。
春時雨も上がったこの日は素晴らしい晴天に恵まれ、「そうだ、油山に名残の桜を見に行こう」と即座に決めた。
何時もの様に近くのコンビニでおにぎりとわずかの惣菜を買い、デジカメを片手に山へ向かった。
油山は知る人ぞ知る桜の名所で、このブログでも数年前に紹介したことがある。
標高600メートルの山の中腹には、期待にたがわず見事な桜が残っていた。また、頭上の桜の更にその上では鶯がきれいな声で鳴交わし、いやが上でも春爛漫の雰囲気を作り出してくれた。
これが今年の最後の花見になるだろうと思いつつ、花見弁当をいただいた。もちろん山で御昼を食べるときはビール抜きである。
帰りはいつもの温泉に浸かり、整骨院で全身マッサージを受けて、疲れを取り英気を養った。

  遠目にも桜の山でありにけり  英世

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草取りⅡ

先日取り残していた娘の庭の草取りと私の家との境界の草取りをした。
草取り鎌を持って娘の庭に出たとたん私は唖然とした。彼女の庭には花と言うものが一切なく一面草ぼうぼうであった。
若くして家を建てたので、花を植える余裕もなかったのだろうと切ない思いであった。それにしても想像を超えて私の家の草取りの二倍の時間が掛かった。
私も覚悟を決め汗をかきながらどうにか取り終えることができた。時給にして2400円相当の仕事量だが、娘が缶ビール(1パック)をくれたことで帳消しとしよう。
その草取りをしながら妙なことを考えた。
俳句を嗜む身の私たちは、野原に出ればやれ蒲公英だ、すみれだ、春の七草だと大はしゃぎしているのに、庭の草となると愛着どころか憎らしい思いになってしまう。ぺんぺん草や仏の座、はこべ、母子草などの春の七草もお構いなしにむしってしまう。
昭和天皇が呟かれたという「雑草と言う草はない」と言うお言葉を、しみじみと思い浮かべながら黙々と草をむしった。

  蒲公英も庭に生えればただの草  英世

鞦韆

もう一つの兼題「鞦韆」とは「しゅうせん」と読み、ぶらんこのことで「ふらここ」、「半仙戯」とも言う。
公園などで子供が揺らして遊んでいるこの鞦韆が、なぜ春の季題なのか気になったので調べてみることにした。
歳時記によると「中国の古い話に、寒食(冬至の後百五日目の日に、風雨が強く火を断って冷食した)の日に宮殿でぶらんこを作って官女たちが戯れたとある。」そのことから春の季題とされたのである。
そんな理屈はどうでもよいが、冬から解放された子供たちが青空に向ってぶらんこを漕ぐ姿は、躍動感を伴ってどうしても春の季題でなければならないと思った。
その鞦韆を詠んだ今日の一句をご紹介しよう。

  鞦韆の子の太陽を蹴上げけり  英世

花一切

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今回の鴻臚句会兼題は「花一切」と「鞦韆」であった。
まず花一切だが、花とはもちろん桜のことで、つまり桜に関する季題なら何でもよいということになる。
花の季題を探って詠むわけであるが、その季題の選択が難しい。
と言うのも花に関する季題は本命の花、桜に加え、花見、花曇、花見、夜桜、残花と数えきれない。
ただし、里の桜が終ったゴールデンウィークの頃、山奥などでたまに見かけることのある桜を余花と言うが、これは夏の季題なのでここでは外すべきであろう。
兼題が花と言うことで、句会の後はみんなで舞鶴公園に夜桜見物に出かけ、ご馳走とビールをいただきながら、ライトアップされた夜桜を存分に堪能した。
ということで今回詠んだ花の句の中から今日の一句をご紹介しよう。

  日本の駅また駅の桜かな  英世

一句の風景

一匹が動けば蝌蚪のみな動く

脊振山に登った時の句である。
脊振山頂の広場には涸れることのない龍神の池がある。何故涸れないのかはよくわからない。
でも、その池の水は飲めない。なぜならばそこには無数の蝌蚪、つまりおたまじゃくしが湧いているからである。
親の蛙を見たことがないのでどんな蛙の子かわからなかったが、インターネットで調べたところどうもヤマアカガエルの子供と言うことであった。
そんなことはどうでもいいが、そのうじょうじょいるおたまじゃくしはいつもは静かにしているが、何かの拍子に一匹が動くと我もわれもと動き出す。
まるで幼稚園児のように。
2014年(平成26年)4月「季題:蝌蚪(春)」

福岡城址の桜を「冬野」にアップした

昨日、福岡城址の見事な桜の様子をお話ししたが、カメラに収めた桜をこのままにしておくのはもったいないと、所属している月刊俳誌「冬野」のインターネットに投稿した。
インターネットの俳誌冬野では冬野の歴史から、主宰のページ、月例句会結果などが掲載され、誰でも自由にアクセスできるようになっている。その一つに「みんなの俳句広場」がある。
このページは会員が旅先や吟行先などで感動したシーンを写真に収め、解説文と共に自分の一句を載せて紹介するものである。今回の私のアップは4月9日からの公開で、タイトルは「福岡城址の桜」である。吟行の折、あまりの美しさに構図も考えずに思わずカメラに切り取ったものである。
この月間俳誌「冬野」へは、私のブログの「リンク」からアクセスすることができるので、一度是非覗いて見ていただきたい。
今日の一句はその「みんなの俳句広場」にアップしたものである。

  年々に見たる桜と思へども  英世

またまた舞鶴公園吟行

今回のたんたん句会の吟行地も舞鶴公園であった。
心配された雨も上がり、曇り空ながら絶好の吟行日和となり、この日もまず牡丹園を訪ねた。
前回訪ねた時はまだ蕾だった牡丹が、この日は蕾の中に数輪の花が咲いていた。牡丹はこのように一輪でも咲くと豪華絢爛と言わざるを得ない。
牡丹は本来五月の季題であるが、この日の牡丹を詠まぬ手はないと季題を先取りして一句したためた。
また、この日の福岡城址は一週間前とは違い、空を染めんばかりの花盛りで、中には風に吹かれて散り始めている桜もあった。満開の桜もいいが、この散りゆく桜もまた風情と言うものであろう。
牡丹と桜を満喫した後は、春風に吹かれながら城内の屋台に立ち寄り、一杯の生ビールとホルモン入りの焼きチャンポンを堪能し、「長閑」と言う季題がぴったりくる春の一日を楽しんだ。
例によってその春爛漫を詠んだ今日の一句をご紹介しよう。

  かほどまで咲きたる花の命はも   英世

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ピーマンを植えた

私が庭の草を取るのを待っていたかのように家内が花の苗を買ってきた。
いつもはきれいな花の苗ばかりを買ってくるのだが、この日に限り花の付いてない苗が混じっていた。
私は農家育ちなので、すぐにそれが野菜の苗と分かった。
常々庭に野菜を植えたいと思っていたが、花好きの家内は決して許さなかった。それがどんな風の吹く廻しかピーマンの苗を買ってきたのである。
庭に花土と油粕を鋤き込んでさっそく3本の苗を植えると、草を取ったばかりの庭に薄緑美しくが映えていた。苗札を見ると間違いなく「こどもピーマン」と書いてある。
予定では7月ごろから収穫できるという。うまく収穫できたら、味を占めて我が家の庭も小さな野菜畑に変わるかもしれない。もっともそれを心待ちしている私だが。

  苗札にこどもピーマンてふ写真  英世

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私の好きな一句

三椏の花三三が九三三が九 稲畑汀子

またまた稲畑汀子の句である。
春になると「今日何も彼もなにもかも春らしく」の句と共にこの三椏の句が自然と私の口から出て来る。
稲畑汀子は「三椏の花を見た時に私は思わず九九を口ずさんでいた。俳句の中に九九を使って数字を並べただけの奇を衒(てら)った表現と思う人があるかもしれないが、私は見たまま感じたままを俳句にしたにすぎないのである。枝が三つに分かれ、その先に花が三つ咲く。九九を通して花の咲き具合を想像して頂ければこの句は成功といえよう。ともかく私はこの句が気に入っている」と述べている。
作者の弁があるのでこれ以上の説明は不要であろう。

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草取り

どうにか春らしく温かくなったので、庭の草取りをした。
冬の間草ぼうぼうの庭を見ているうちに、何時かは取らねばと思っていただけに胸のつかえが降りた思いがする。
それにしても予想外だった。
冬はそんなに草は伸びないだろうと高をくくっていたが、いざ取ってみると何の何のごみ袋二杯にもなってしまった。
実は草取りはこれだけではない。我が家とほぼ同じ広さの娘の庭が待ってているし、娘の家との境界もまだ残っている。
何時ぞやもお話ししたが、私の嫌いな作業の中にこの草取りがある。手は草の汁で真黒く汚れるし足腰は痛くなる。本気で草取りが好きだという人の気が知れない。
これからまた冬になるまで定期的に草を取らねばならないかと思うと、今から先が思いやられる。

  伸びるのはこれからですと春の草  英世

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冬野四月号

毎月月末か一日前に届く冬野がなかなかつかない。どうかしたのかと思っていたら月末ぎりぎりの夕方届いた。
最近宅配業者の困窮が伝えられているが、その影響かもしれないと思いつつ手にした。
例によって冬野四月号並びに他の句会の入選句をご紹介しよう。
冬野四月号
 屠蘇を酌む孫の連れ来し青年と
 雪降るをどこか待ちゐる心かな
 浮寝鴨とは首しまふだけのこと
 落ち着かぬ猫の素振りや春隣
 鄙宿の昼も霜置く暗さかな
 凍蝶をつまめば骸なりしかな
 子供らの夢は出初の消防車
 小正月妻にその気のなかりけり
 梅が香や如水閑居のたたずまひ
 浅春や二人で拾ふ日のかけら
 梅仰ぐみな俳聖の眼して
 鳴り止まぬ宮の大鈴春浅し
冬野インターネット俳句
 これ以上褪せられぬ身の春の風邪
 剪定ややんちやな枝は切り落す
 市民権得たる顔して残る鴨
俳句ステーション
 初鳴や田畑を持たぬ島の家
 鶯の遠音か老いの空耳か
 山寺の縁に居座る余寒かな(特選一席)
 梅を見る浮世のことを外に置き
愚陀仏庵インターネッと俳句
 天平に思ひ巡らせ梅に立つ
 初電話さしたる用もなきものを(3月号補追)

俳句は花を拾う仕事

俳人である知人のブログに「俳句は花を拾う仕事である」と書いてあった。
考えてみれば、虚子の「花鳥諷詠」や和歌の「雪月花」にもあるように、古より花は詩の最も需要な要素であった。
その花の代表が桜である。
折しも今は桜の季節、つまり花の季節である。
その花には一つのストーリーがある。樹上にある時は蕾から開花、花万朶、散り始めは飛花落花、そして花吹雪、花の屑とその一生はまさに詩の連続である。
その花のストーリーを詠まない手はない。
桜に限らず、梅、牡丹、花菖蒲と日本は一年中花が咲き乱れている。
季節に合わせてその花を拾うのが俳人の仕事と言うのであろう。

   人生の最後は派手に桜散る  英世

就職事情

一昨日孫娘の鈴花が就職して東京で研修を受ける話をしたが、今日はそれとはまったく事情の異なる就職の話である。
ずいぶん前の話だが、新聞のコラム欄に63歳の男性が「定職のありがたみ」という一文を投稿していた。
それによると還暦前に解雇され、不安の中の職探しであったがどうにか今の仕事にありつき、今年も契約社員としての継続が叶い一安心しているという記事であった。
彼の職探しの不安と継続決定後の安堵も分かるが、私はそれ以上に非正規社員の増加が気になって仕方がない。
国の言う「一億総活躍社会」の中にはこの非正規社員も活躍している一人として計算されるのであろうか。数字だけでは測り得ない実態があるような気がするのだが。
少子高齢化の日本になって久しいが、少子化の原因の一つには安定した収入も得られず、結婚もできない若者が多いと聞く。
この非正規社員の増加と何らかの関係があるような気がする。

  コンビニの灯り煌く春深夜  英世

四月の花ごよみ「桃の花」

桃の節句と言うようにひな祭りと桃の花は切っても切れない間柄であるが、今日の雛祭には花屋で買わない限り間に合わない。
昔の雛祭は旧暦つまり今の四月に行われていたので、この桃の花がちょうど見ごろと言うわけである。
むかし私の実家にも桃の木があり、特に祖母がその桃の花を愛していた。
もちろん私は花より団子であるが、その桃の実は小さい上に、とても固くて色も悪く全く美味しくなかった。その上木の幹や枝葉には毛虫がうじゃうじゃいたことを覚えている。
私たちはこの桃を「いし桃」と呼んでいたが、正式な名前はいまもって知らない。
ちなみに桃すなわち桃の実は秋の季題である。

  やはらかき嬰の手のひら桃の花  英世

四月に入る

今日から春爛漫の四月である。
巷では幼稚園から大学まで、入学式のオンパレードで、私も遠い昔の入学式、入社式を思い出した。
私が仕事している進学塾からも多くの大学生が誕生したが、近くそれぞれの入学式に臨むことであろう。その一方では多くが巣立っていったその進学塾にも、新しい塾生が誕生することになる。
また、新入社員の入社式もその多くがこの月に行われる
孫娘の鈴花が三菱系の金融機関に就職したことはずいぶん昔にお話ししたが、その鈴花も3日には東京で入社式を終え、その日のうちに研修に入ることになっている。どのような研修を受けて福岡に戻ってくるのか今から楽しみである。
鈴花自身はいろんな資格を取りバリバリ活躍したいらしいが、体にだけは気を付けてもらいたいものである。

  入学の我前列に座らされ  英世

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