進むべき俳句の道

昨日に続いて虚子本「進むべき俳句の道」をご紹介しよう。
この本は、虚子がホトトギスに掲載した雑詠第一期・第二期の中の作者及び作句について個別に評論したものである。
緒言で、虚子は「新」と言う文字は若者の特権であるが、上ずった「新」の文字だけが俳句の世界まで浸透することは不本意であると述べている。
また、子規は小主観を嫌って純客観句を提唱したが、虚子は客観の写生の中に主観はあってしかるべきだが、その主観は作り物や借り物ではいけないと、立子の句の主観の良さを取り上げて説いている。
実際の句の評論では個々の俳人の生い立ちや性格を詳細に紹介し、その生い立ちや性格の違いからくる句の特徴を適格に評論している。
冒頭の渡辺水巴(裕福な育ち)、村上鬼城(聴覚障害)、飯田蛇笏(信州住まい)の句には、それぞれの個性の違いが如実に表れており、それを虚子があるがままに評論していることに興味と感動を覚えた。

  秋立つや俳句の道の遠きこと  英世

俳句はかく解しかく味わう

先月、高浜虚子の本を読みまくっている話をしたが、今日はその中で「俳句はかく解しかく味わう」についてお話ししよう。
俳句読本と言えばほとんどが俳句入門書で、俳句の形式、季題(季語)、切れ字とその作り方を解くものが多いが、この本は違っていた。
芭蕉、蕪村、一茶、子規などの古今の200句を一つ一つ丁寧に解説し、その句の表現や背景、そして句の良し悪しをわかりやすく噛み口説いている。
例えば有名な「古池や・・・」の句は、「決して名句とは言えないが、芭蕉が閑寂の趣とその叙写に到達した歴史的価値のある句だ」と言っている。
この書は虚子の俳句感を考察する格好な手がかりがあり、虚子が芭蕉を近代俳句の鏡とする理由などが読み取れる。
俳句を嗜む者にとって一度は手にしてほしい名著である。

  虚子本に埋もれて寝る夜半の秋  英世

藤崎界隈吟行

猛暑の中、今回のたんたん句会吟行は、早良区の藤崎界隈を行きあたりばったりに吟行するものであった。
資料によれば、地名の「藤崎」について町内ではかつてこの地から「筑前富士」と称される可也山がよく見えたことから、「富士崎」という地名となったと口伝されている。
藤崎は西新と共に福岡市の西部の住宅地で、周辺には区役所を始め、有名な大学、高校や大きなお寺もあり、そこには歴史上有名な地元の士も眠っている。
今回はその中で、お正月に賑わう猿田彦神社と黄檗宗の大悲山・千眼寺を吟行した。
時あたかも蟬時雨の時期で、蝉の抜け殻が猿田彦神社の御神木の先までびっしりと垂れ下がり、一部は社の注連縄にまでぶら下がっていて、あたりは耳をつんざく蝉時雨であった。
千眼寺では竹林を吹き抜ける風が汗ばんだ私の体を一瞬だけでも慰めてくれた。
昼食は何時ものうどん屋でビールを飲みながらざるそばを食べた。此処のうどん、蕎麦は絶品で、その美味しさにまた行きたいと思わせてしまうほどであった。
例によってこの日の一句をご紹介しよう。

  たっぷりと薬味効かせて暑に対す  英世

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冬野八月号

秋の声はほど遠く、夏の太陽が威張りくさっている中に冬野八月号が届いた。
その中には北部九州大豪雨の犠牲者に対する哀悼の言葉も述べられていた。
例によって冬野入選句とその他の句会の入選句をご紹介しよう。
冬野八月号
 夏草や祀る者なき墓の数
 薫風を掴み輪をなすとんびかな
 矢車の風の吐息に添ひし音
 空が好き風が好きなる鯉幟
 二浪子のやる気戻りし五月かな
 十薬の臭ひ根つから嫌ひなり
 跡継ぎの嬰に鉢巻武具飾る
 武具飾る農の血筋の家なれど
 北斎の波を染め抜く夏暖簾
 空梅雨の予感は風の軽さにも
 色香にも進化てふもの七変化
冬野インターネット句会
 電話なき電話ボックス梅雨豪雨
 走り根の岩を噛みたる滝の道
俳句ステーション
 怖いもの見たさに子の眼蛇を追ふ
 隠沼に影と消えゆく糸とんぼ
 鶏小屋に鶏の駆けこむ梅雨の雷
愚陀仏庵インターネット句会
 日本を何処へ導く青嵐
伊藤園「お~いお茶俳句」
 唱歌ほどには団栗の転がらず

切れ字の「や」は「ね」

俳句に切れ字がありそれが一句を引き締めていることはどなたでもご存知のことだが、具体的にその切れ字の「や」はどんな役目をしているのか考えてみた。
結論から言うとその「や」は散文的な詩を韻文にする役目を帯びていると思う。
例えば、私の句の「下萌や都府の礎石は南北に」と言う句を考えてみよう。この句を「下萌の都府の礎石は南北に」とするとどうだろうか。
前者は「下萌や」と切ることで春の喜び、感動を言おうとしていることがはっきりしている。
一方、後者は広々とした都府楼址がこの句の中心をなし、その都府楼址の説明に草が萌え始めたと添えただけで、何の感動もない散文的な句になってしまう。
虚子も言っていたが、「や」そのものには意味はないが、その「や」を置くことでその言葉が強調され生きて来る。つまり「や」は話し言葉で言う「○○がね」と強調する、あるいはダメ押しをする「ね」のようなものではないだろうか。
昨今、「や」や「けり」の切れ字を使った句は古臭いとされる風潮にあるが、その意味
をよく考え、大いにその句を作りたいと思っている。

  万緑やかつて地球は青かつた  英世

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