一句の風景

ペン走る音のかすかに秋燈火

昨日、仕事先の進学塾の玄関に、センター試験まであと「96日」の貼り紙がしてあった。もうそんな時期になったのかと、秋の灯火の下で時の流れの早さに驚いている。
さて、今回の一句の風景は取り上げるほどの句でもないと思いつつ取り上げてしまった。
まず、秋燈下とはいつのことだろうか。歳時記によると「秋涼の日が続き、夜も長くなると読書に団欒に灯火が親しまれることを言う」とある。
元来朝型の私であるが、たまには夜灯火の下で文を書くこともある。
しんとしずまり返った部屋で、愛用の万年筆がかすかに音を立てて紙の上を滑っている。
そのように少し心象的な雰囲気を詠んだ一句である。
2014年(平成26年)10月「季題:秋の灯(秋)」

室見川吟行

今回のたんたん句会吟行は室見川に秋を拾うことであった。
この日は朝から雨が降り続くあいにくの天気であったが、雨の中に秋を拾うのも吟行の楽しみと言うものであろう。
室見川吟行は一般的には素魚漁、つまり素魚の簗が掛けられる早春に行うことが多いが、秋の室見川も捨てたものではない。
室見川は福岡市を流れているとはいえ、西の郊外にあるため上流周辺の人家も少なく、きれいな水質が保たれている。
特にこの時期は季題に水澄むとあるように一年のうちで最もきれいな川となり、川面には鴎が飛び交い、岸辺は秋の草花が風に揺れている。野紺菊などはその最たるものである。
途中、あまりの大粒な雨にしばし橋の下で雨宿りを兼ねて句を探したが、なんだか少年の頃に悪ガキどもと橋の下で遊んだことが思い出されて懐かしくなった。
そのような中で詠んだ今日の一句をご紹介しよう。

  秋雨や少年の日の橋の下  英世

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冬野十月号

ホトトギスの廣太郎先生のブログではないが、「冬野十月号が手許に届いた」と言うお馴染みのフレーズである。
先月、雑詠選の成績が低迷しているとぼやいてしまいましたが、今月は一転して自分でもびっくりするような良い成績であった。
きっと神様に私の気持ちが通じたのかも知れない。そんなことはないか。来月はまた転落するかもしれない。
例によってその他の句会の入選句と共にご紹介しよう。
冬野十月号
 問へば逃げ問はねば止まる道をしへ
 万緑の島に火のなき烽火台
 夏神楽済めば須佐之男畑仕事
 噺家のそば喰ふ仕草涼しかり
 水をくれ夕立来たれと引揚碑
 褒めらるることに慣れたる金魚かな
 青鬼灯静かに色を得つつあり
 筋力の衰へ汗のボランティア
 喋らねばどうにもならぬ残暑かな
冬野インターネット俳句
 芋虫を殺せり妻の命のまま
 芒野や忘れ去られし開拓史
俳句ステーション
 盂蘭盆や十七歳とある位牌
 被災地に送る林檎を選りにけり
 八月の海の慟哭聞こえけり
愚陀仏庵インターネット俳句
 コスモスに付き過ぎといふ風談義

一句の風景

秋の灯や蔵書に欲しき閻魔句集

秋は読書の秋である。
私の俳句の先師は河野静雲先生である。河野静雲は明治20年生まれの俳人で、高浜虚子に師事したホトトギス同人、その句風は人間味溢れる滑稽句が特徴であったと言う。
ところが私の書架には彼の句集「閻魔」が蔵書として置かれていない。
やむを得ず図書館でその句集「閻魔」をじっくりと読んだが、その句集「閻魔」が書架にないことに一種の恥ずかしさを感じた。
その時の恥ずかしさ虚しさを詠んだ句である
2014年(平成26年)9月「季題:秋の灯(秋)」

大濠公園吟行

昨日の渦潮句会はおなじみの大濠公園であった。
この日は朝から雨が降ったりやんだりのあいにくの天気であったが、その雨も吟行を楽しむ頃にはすっかり上がり、時折青空が覗く絶好の吟行日和であった。。
この時期、大濠公園はすっかり秋のたたずまいで、あれほどみずみずしかった樹々の緑もどことなく力が弱く終末を迎えつつある。
湖面を吹き抜ける風も秋の風そのもので、岸辺に立つ能楽堂の姿が雨に濡れて、なんとなく秋の風情にマッチしていた。
賑やかだった秋蝉や子供の声もなく、ボートも繋がれたままである。
外堀の蓮は破れて、北から鴨たちが飛んでくる。いわゆる初鴨である。そのうちこの濠も鴨や鴎の冬の鳥で埋め尽くされることであろう。
そのような雨の大濠公園の秋を詠んだこの日の一句をご紹介しよう。

  晩秋を引き寄せ湖の風渡る  英世

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