草取りⅡ

先日取り残していた娘の庭の草取りと私の家との境界の草取りをした。
草取り鎌を持って娘の庭に出たとたん私は唖然とした。彼女の庭には花と言うものが一切なく一面草ぼうぼうであった。
若くして家を建てたので、花を植える余裕もなかったのだろうと切ない思いであった。それにしても想像を超えて私の家の草取りの二倍の時間が掛かった。
私も覚悟を決め汗をかきながらどうにか取り終えることができた。時給にして2400円相当の仕事量だが、娘が缶ビール(1パック)をくれたことで帳消しとしよう。
その草取りをしながら妙なことを考えた。
俳句を嗜む身の私たちは、野原に出ればやれ蒲公英だ、すみれだ、春の七草だと大はしゃぎしているのに、庭の草となると愛着どころか憎らしい思いになってしまう。ぺんぺん草や仏の座、はこべ、母子草などの春の七草もお構いなしにむしってしまう。
昭和天皇が呟かれたという「雑草と言う草はない」と言うお言葉を、しみじみと思い浮かべながら黙々と草をむしった。

  蒲公英も庭に生えればただの草  英世

福岡城址の桜を「冬野」にアップした

昨日、福岡城址の見事な桜の様子をお話ししたが、カメラに収めた桜をこのままにしておくのはもったいないと、所属している月刊俳誌「冬野」のインターネットに投稿した。
インターネットの俳誌冬野では冬野の歴史から、主宰のページ、月例句会結果などが掲載され、誰でも自由にアクセスできるようになっている。その一つに「みんなの俳句広場」がある。
このページは会員が旅先や吟行先などで感動したシーンを写真に収め、解説文と共に自分の一句を載せて紹介するものである。今回の私のアップは4月9日からの公開で、タイトルは「福岡城址の桜」である。吟行の折、あまりの美しさに構図も考えずに思わずカメラに切り取ったものである。
この月間俳誌「冬野」へは、私のブログの「リンク」からアクセスすることができるので、一度是非覗いて見ていただきたい。
今日の一句はその「みんなの俳句広場」にアップしたものである。

  年々に見たる桜と思へども  英世

ピーマンを植えた

私が庭の草を取るのを待っていたかのように家内が花の苗を買ってきた。
いつもはきれいな花の苗ばかりを買ってくるのだが、この日に限り花の付いてない苗が混じっていた。
私は農家育ちなので、すぐにそれが野菜の苗と分かった。
常々庭に野菜を植えたいと思っていたが、花好きの家内は決して許さなかった。それがどんな風の吹く廻しかピーマンの苗を買ってきたのである。
庭に花土と油粕を鋤き込んでさっそく3本の苗を植えると、草を取ったばかりの庭に薄緑美しくが映えていた。苗札を見ると間違いなく「こどもピーマン」と書いてある。
予定では7月ごろから収穫できるという。うまく収穫できたら、味を占めて我が家の庭も小さな野菜畑に変わるかもしれない。もっともそれを心待ちしている私だが。

  苗札にこどもピーマンてふ写真  英世

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草取り

どうにか春らしく温かくなったので、庭の草取りをした。
冬の間草ぼうぼうの庭を見ているうちに、何時かは取らねばと思っていただけに胸のつかえが降りた思いがする。
それにしても予想外だった。
冬はそんなに草は伸びないだろうと高をくくっていたが、いざ取ってみると何の何のごみ袋二杯にもなってしまった。
実は草取りはこれだけではない。我が家とほぼ同じ広さの娘の庭が待ってているし、娘の家との境界もまだ残っている。
何時ぞやもお話ししたが、私の嫌いな作業の中にこの草取りがある。手は草の汁で真黒く汚れるし足腰は痛くなる。本気で草取りが好きだという人の気が知れない。
これからまた冬になるまで定期的に草を取らねばならないかと思うと、今から先が思いやられる。

  伸びるのはこれからですと春の草  英世

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俳句は花を拾う仕事

俳人である知人のブログに「俳句は花を拾う仕事である」と書いてあった。
考えてみれば、虚子の「花鳥諷詠」や和歌の「雪月花」にもあるように、古より花は詩の最も需要な要素であった。
その花の代表が桜である。
折しも今は桜の季節、つまり花の季節である。
その花には一つのストーリーがある。樹上にある時は蕾から開花、花万朶、散り始めは飛花落花、そして花吹雪、花の屑とその一生はまさに詩の連続である。
その花のストーリーを詠まない手はない。
桜に限らず、梅、牡丹、花菖蒲と日本は一年中花が咲き乱れている。
季節に合わせてその花を拾うのが俳人の仕事と言うのであろう。

   人生の最後は派手に桜散る  英世

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