大濠公園吟行

今回の百年句会吟行は9月の渦潮句会と同じ大濠公園であった。
前回は小雨模様のすっきりしない天気であったが、この日も朝から大粒の雨が降っていた。このところの吟行は必ず雨に祟られており、どうも秋雨前線が私の上に居座りすっかり雨男にしている様である。
吟行地はその日の天気によってずいぶん違った姿を見せてくれるものだが、俳句を嗜む者にとってはそれがまた楽しいものである。
大濠の中の島には茸がたくさん生えていたが、偶々通りかかったか係員が「すべて毒茸だから触らないように」と言いながら摘み取っていくという珍しいことにも出会った。
また、この日は日曜日とあって、雨の中でもランニングする人が多かった。中には福岡シティマラソンに出場する人がいるかもしれない。
水面には鴨の数がずいぶん増えてきて、小さいながらもいくつかの群れで陣を敷いて濠全体が賑やかに思えた。
そのような大濠公園を詠んだ今日の一句をご紹介しよう。

  雨後に立つ不思議の国の茸どち  英世

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敗荷

もう一つの兼題は敗荷で、「やれはす」または「はいか」と読み、破れ蓮(やれはちす)の字を当てることもある。
夏の間、池を覆って青々と茂っていた蓮の葉は、秋風と共に破れはじめだんだんみすぼらしい姿になってゆく。
そのさまを敗荷と言うのだが、「荷」はハスの葉を意味する字なので、俳句ではこの字を使うのが普通である。蓮の実が熟れて飛ぶのもこの敗荷の時期である。
ちなみに蓮の字は「ハスの実や蓮根」を言う場合の字とされている。
なお、枯蓮と言えば冬の季題になるので注意しなければならない。
私の敗荷のイメージは福岡城のお堀にびっしり生い茂っている蓮の葉で、敗荷も自ずとそのイメージが強くなる。
そのお堀の敗荷を詠んだ今日の一句をご紹介しよう。

  水玉を留むる術なき敗荷かな  英世

朝寒

今月の鴻臚句会の兼題は朝寒と敗荷であった。
まず、朝寒であるが、歳時記のよると「朝だけ気温が寒さを覚えるほど下がる秋の終り頃の感じを言う」とある。
そういえば、私はまだ半袖で殆んど過ごしているが、その半袖のまま庭に水撒きに出ると、まさにこの朝寒の感じである。
ほんのしばらくの朝の間だけのはかない寒さで、日中は忘れてしまう寒さのことでそれは冬の朝の寒さではない。
ちなみに、寒き朝、寒い朝と言えば冬の季題になってしまうので注意しなければならない。
その朝寒を詠んだ今日の一句をご紹介しよう。

   朝寒や吾の前をもう人の行く  英世

水冷たし

朝、顔を洗ったり庭に水を撒いたりすると、その水の冷たさにヒヤッとすることがある。
そういえば、先月「水澄む」という兼題で俳句を詠んだが、それとは違うこの秋の水の冷たさを表現する季題はないかと考えてみた。
似たような季題に「秋の水」と「冷ややか」「冷たし」がある。
歳時記によれば、秋の水は冷ややかに澄んでいる水のこととあり、私が言う身近に肌で感じる水の冷たさとは少し違うような気がする。
また、「冷ややか」と「冷たし」は寒さとは違う肌に冷たく感じる感覚的なもので、いずれも直接的に水の冷たさを指してはいない。しかも、そのうちの「冷たし」は冬の季題である。
私の言う秋の朝に水を冷たく感じることへの適切な季題はないものだろうか。
当面秋の水で詠むしかないであろうが、この先「水冷し」又は「水冷たし」「水冷ややか」と言った秋の季題、もしくは秋の水の傍題が生まれることを期待している。

  顔と手にそれと感づる秋の水 英世

私の好きな一句

柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺 子規

正岡子規の代表的な句で小学校の教科書にも載っていそうな句である。この句を読むとなぜか子供の頃の庭の大きな柿の木を思い出す。
子規は日清戦争の従軍記者として大陸に派遣され、帰国の途中に喀血して入院治療を受けた後、郷里の松山で静養していた。
その後回復したとして、東京に帰る途中に奈良に寄ってこの句を詠んだという。
柿好きだった子規が宿か茶店でその柿を食べている時に、法隆寺の鐘の音が風に乗って聞こえて来たという分かりやすいというか、ある意味では平凡な句である。
しかし、その時の子規の胸には、東京へ帰りまた仕事に打ち込めるという希望があり、その思いがこの句に籠められていたのではなかろうか。
折から聞こえた法隆寺の鐘の音は、今から帰る上野か浅草の希望の鐘の音を思い起こしていたに違いない。

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